玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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受動と能動

▼バターで具を炒めてカレーを作る。今までサラダ油でやっていたけれど、味がまろやかになって美味しくなった。当たり前のことに気づかずにここまで来てしまった。

 

料理の味が安定しない人というのがいる。原因の大部分はレシピを見ないからだけど、なんとなく勘でやってもそれなりに出来るから見なくなるのだろう。出来てみるまで成功か失敗かわからない。こういう人はギャンブル的な人生を歩むのかなあ、などと勝手に思ってしまう。余計なお世話である。でも、これはあまり良くないことのようでいて、実はいいことなんじゃないのか。

 

料理上手な人は毎回美味しい料理を同じように作る。しかし、出来てみるまで成功か失敗かわからない人は、料理+おみくじができることになる。楽しみが増える。そのおみくじが凶続きのことがあるかもしれないけど。そう考えてみると、安定性というのはそれほどいいものだろうかとも思う。サルがボタンを押すと餌をもらえる実験があって、サルの頭に電極をつけて測定する。必ずエサがもらえる状態(100%)だとやがてまったく喜びを感じなくなるという。逆に10回に1回程度しかエサが出なくても、どうせ駄目だろうと思ってたいした反応がない。もっとも反応があるのが50%の確率でエサが出る状態だという。

 

つまり、成功と失敗を半分ずつ繰り返してくれる人に料理を作ってもらうと、もっともワクワクできるわけである。私、サルなので。上手くいったりいかなかったりするから楽しいのだ。これは何か教訓になるような、そうでもないような。

 

 

 

▼繕い物などを家でする人は少なくなった。共働きの家庭も多いし、わざわざ繕うよりも新しい服を買った方が早い。だから、繕い物は完全に趣味か、専門の人が細々とやるだけになってしまった。料理もやがてはこの道をたどるような気がする。みな、レトルトや冷凍、半製品、お惣菜になり、料理は趣味でやるか、店で食べるかになってしまうかもしれない。ファミレスのサイゼリヤにガスコンロがない(電磁調理器はある)のは有名な話で、どんどん手順は簡略化されている。あと20年もすれば、家庭でまったく料理をしない時代がくるのではないか。

 

それが残念ということはない。今まで料理に使っていた時間を他のことに使えるようになる。ただ、人の喜びというか、やりがいというのは、サービスを受けているときよりも何かを作り出しているときに感じるほうが大きいように思う。これは巧拙とは関係のない話で、スポーツを観るよりもするとか、本を読むよりも書くとか、受動よりも能動に面白いものが詰まっている。将来、寝ているだけで生活ができる状態になり浮かれていても、実は多くの喜びを失っていて、そのことに気づかないだけかもしれない。現代よりも江戸時代の人のほうが生活を楽しんでいたという可能性も十分にある。

 

などと、とりとめもないことをねえ。明日までに出さなければならない資料があるのだけど、人は現実逃避をするためにいろんなことを考えるのだなあと感心した。仕事が一つも進んでいません。