玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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意見が異なる主張への指摘

▼台風一過というわけにはいかず曇天、風強し。荒れ狂う日々である。まだ梅雨明けはしていない。

 

いざゆかん、わが心の故郷 業務スーパーへ。食器用洗剤を買う。業務スーパーの洗剤は環境に配慮してない感じで、汚れがめちゃくちゃ落ちる。78円(600ml)なのに。配慮してたらごめんだけど。洗剤は業スーに限る。あと、怪しげな外国産の菓子など買う。たいてい美味しくない。業務スーパーのお菓子は一つ食べれば十分なほど油っこい味が多く、残りは人にあげたくなる。人にあげるために買っているといっても過言ではない。

 

お世話になっている会社へ。隣席のTさんに業スーのお菓子を渡すと「変な物ばっかり買って来ないでください」といわれる。なんだ、変な物って。いいだろうが好きなんだから。なんでも食べる男24時間くんに、業スーのお菓子をあげると喜んで食べた。「いくらでも食べれますよ、こういうの」という。これですよ、これ。餌付けする喜び。やっぱり人類は体育会系男子に限る。モノを考えない素直さがある。女はダメだ。差別してこ。

 

 

▼メジャーリーグオールスターを午前8時から放送しており観戦。しかし、9時20分になってもセレモニーやらインタビューやら余計な情報ばかりで試合が始まらない。そもそも私は試合にしか興味がないわけで、選手の私生活とか、大谷の飼い犬とかどうでもいいんだよな。大谷選手で思い出したが、この時期になると大谷選手をかたどった田んぼアートがニュースになる。今年は兵庫県豊岡市で、大谷の犬のデコピンが田んぼアートになったという。それ、ただの犬では。犬を観に行く人たちがいる。

 

昨日のサッカー日韓戦E-1選手権もそうだが、午後7時放送開始で実際の試合開始は7時半から。煽りVとか、インタビューとか、いろいろ長い。ジジイなのでこのあたりが我慢できなくなっている。テレビを叩き割る勢いだ。7時放送開始をうたうなら、7時になった直後にボールを蹴りだしてほしい。引き金をひいたら、すぐに弾が出てほしい。子供の頃のほうが気が長く、中年になってからは気が短くなった。残り時間が短いからだろうか。しばしば街で見かけたキレる中年、暴走老人、あれは遠い日の私の姿ではないかと思っていたが、もはやそんな余裕はない。吉祥寺駅近くのファミレスの扉に蹴りを入れていたジジイ、あれこそが私の姿だったか。肝に銘じて生きよう。

 

 

▼母の関節リウマチの注射を打つ。母は関節リウマチで指に力が入らないので、代わりに私が打っている。「殿の仇!」などといいながら。注射を常温に戻したり、消毒などの作業が煩雑。注射はオートインジェクターという未来っぽい筒で、お腹の肉をつまんで打つのだが少しだけ難しい。いつか失敗しそう。薬液も高く、10万円以上掛かっていると思うとビビってしまう。私に3万円以上のものを持たせるな。緊張で泣く。

 

前職のとき、どうしても現金を持って移動しなければならないときがあった。寅やの小さな紙袋に現金700万円を入れて運んだが、あれはビビった。周囲が全員犯罪者に見え、疑心暗鬼になる。銀行から出てきた私は本当に挙動不審だったと思う。私の様子を見て、社長は「大丈夫か、おまえ」と笑っていたが、おめぇが行けよ! と思いました。心がちいかわなのだから、私に責任ある仕事をさせるな。

 

 

▼母の認知症は一進一退。少しは進んでいるのか、どうなのか。毎日接しているから、かえってよくわからない。軽度ということで普通に暮らせているが、薬の飲み間違いや物忘れはある。注意していてもどうしても起きてしまう。問題が起きるたび改善策を考えるが、また新しい問題は起こる。気にせずにいく。

 

認知症は難しい病気だなと思う。軽度ですらそう思う。同じことを何度も訊かれるし、昨日いったことは今日になれば憶えていない。忙しいときは「さっきいったよ」といってしまうこともある。母は悲しそうな顔をするし、そんな顔を見ればこちらも悲しくなる。なんでそんな言い方をしたのだろうと自分を責めることにもなる。何度も同じ説明をするのは砂漠にひしゃくで水を撒くような虚しさがある。親の衰えを認めたくないという私の弱さも感じる。介護する側の心のコントロールというのも、実はとても重要なことだろう。

 

機嫌の良さ、気分は伝染しやすい。介護する側もされる側も、笑ってゆったり過ごせるというのが理想。そこまでいくのは難しくても、基本的にあまり気にしないのがいいように思う。いいかげんでいく。

 

認知症は早期発見が重要で、それを考えると認知症の兆候は授業で教えた方がいいように思う。認知症は軽度認知障害(MCI)の段階で治療すれば、認知症まで進行しないことがある。物忘れがあるから認知症というわけではない。加齢の影響もあるからなんともいえない。だが、日付や場所が怪しいとか、道順がわからないとか、同じ物をいくつも買ってしまう、今までやっていたリモコンや家電の操作ができなくなるという兆候はある。早い段階で気づけていたらと今でも思う。それにしてもつくづく厄介な病気。私もいずれはねえ‥‥などと。

 

 

▼週末は参院選。いつの間にか選挙は外国人政策が焦点になっていた。排外主義的な主張をする政党が勢いを持っているのが怖ろしいところ。参政党はオレンジの鳳凰のロゴのデザインが良い。ショート動画にもしばしば現れる。ネットを巧みに使っている印象がある。サイトをみると新日本憲法(構想案)が公開されている。憲法は権力から国民を守るものであるというのは、法学の授業の一回目でやるような内容だけど、参政党の憲法は人権を制限するような内容で驚いた。どこがどう悪いといちいち指摘する以前の問題で、全体が抑圧的で現行の憲法とは性質そのものが異なる。権力者から国民を守るのではなく、権力者のための憲法になっている。

 

今回の選挙でいくつかの党が掲げる排外主義的主張、事実やデータを無視する姿勢も問題だが、そういった主張を指摘する側の姿勢も気にかかる。「あの憲法を見て、何が問題かわからないやつはバカ」というような。お互いがお互いを叩くことに一生懸命に見える。参政党の政策を批判するのはよいが、支持者を批判するのはまったく違う。どうやったら心地良く暮らせるか、そのためにはどの党や政治家を選ぶかだけを考えればよい話で、反対意見をねじ伏せるのが目的ではない。感情的でまともな議論になっていない人も見かける。

 

嘲笑したり、攻撃的な言葉を投げつければ、相手は心を閉ざしてしまう。そんな嫌な人間のいうことに誰が耳をかすだろうか。人を笑い物にしたり、揶揄すれば溜飲は下がるかもしれない。だが、それは余計に相手の意志を頑なにし、憎しみを強めることにしかならない。相手を侮蔑して見下す気持ちは、相手に伝わりやすい。そういった感情に人は敏感だ。誤りには根拠あるデータを提示し、粘り強く説明するしかない。そういったことができる人は少ないのかもしれない。そういう人は、そもそもSNSをやらないだろうけど。

 

 

▼映画の感想『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』『悪い夏』を書きました。ガンダムシリーズ、久々に観たな。よくわからんことになっていた。『悪い夏』は生活保護不正受給の話。どんよりします。

蒸し蒸しの七月

▼扇風機でなまぬるい空気をかきまぜている間に朝が来た。

 

うだるような暑さ。討ち死にを覚悟するような暑さの中、必勝鉢巻きをしめて買い物に行く。思えば去年までは猛暑の中、自転車を使わず、往復3、4キロの道のりを歩いていた。狂っていたな。気がしれんよ。今年は正常になったので、自転車で老婆をはね飛ばしながら行っている。ゴーゴー。信号待ちで、目の前を曲がって行った車の運転手がスマホを使っていた。だが、違和感があり、よく見るとスマホではなく電気シェーバーだった。スマホ使用は、ながら運転の対象で交通違反になるが髭剃りはどうなのだろう。それにしても紛らわしいな。

 

ここのところ天候が安定しているせいか、野菜が安い。野菜の販売所で巨大なキュウリ三本が百円、トウモロコシ三本を250円で購入。トウモロコシをさっそく塩茹でにする。粒は小さいものの甘くて美味しかった。トウモロコシを覆う黄緑の薄皮やヒゲはお茶にできるという。トウモロコシの薄皮は包丁で切ることができない。堅いというのではなく、手応えがない。不思議な感触。仕方ないのでハサミで3センチほどの大きさに切った。

 

フライパンで薄皮とヒゲを柴犬色になるまで炒ったあと、10分ほど火にかけて煮出す。トウモロコシ茶ができました。ほほほ。重畳。まず温かいものを一杯、トウモロコシの香りがする。トウモロコシ茶なので。ふむ、これはこれで。だが冷やしてからが美味かろうと冷蔵庫で冷ます。キンキンに冷えたトウモロコシ茶を飲んで思うが、これはひょっとして麦茶の下位互換なのではないか。麦茶がWindows11だとするとWindowsXPぐらいまで性能が落ちた感じ。いや、XPは実にいいOSだったが今は話がとっちらかるのでよす。

 

ともすれば、手作りすると味の評価は甘くなりがちだ。どうしても手間が掛かっているから、なんとか美点を見つけようと贔屓目で見てしまう。私のその歪んだ眼で見ても長所がないな、トウモロコシ茶は。駄目だこれ。なぜ、トウモロコシ茶がネットで話題にならないか。まずいからです。ブルジョアは麦茶を買え。

 

だいたい、この暑い中、わざわざ煮出して飲む理由がないんだよ。なんでこんなことをやったのか。やらなくてよい。やらなくてよいということが人生にはある。それを確認するためにやった。頭のおかしい人は是非やってみてください。

 

 

▼また駄文を書いてしまったな。だってしょうがないじゃない、駄人間だもの。

 

このあとに「みつを」と続けなくなっただけ、私の成長がある。二週間前なら書いていた。私が石川五右衛門であれば「またつまらぬものを書いてしまった」と、独りごちるだろうか。というか、五右衛門て普段は面白いものを斬っていますか? たとえば、自動お掃除ロボットなど。ChatGPTに「石川五右衛門が斬っている面白い物は?」と訊いたところ「恋する乙女の淡い初恋の感情」と答えた。もう、大喜利でも勝てないので、いよいよ私の存在価値はなくなったな。消えるしかない。死因が「ChatGPTに大喜利で負けたから」は、令和すぎる死因といえよう。

 

ここまで何も考えずに一息で書いた。そりゃ、こうなりますよ。

 

 

▼来週は参院選。ベニヤ板の掲示板にポスターが貼られていた。日本も、好きな陰謀論やカルトを選べる時代になってきた。友人の中にも「真実に目覚めた日本人。外国人から大和民族の誇りを取り戻す」などとSNSのプロフィール欄に書いている者がおり、のけぞる。子供の頃、授業でアパルトヘイトを学んだり、『破戒』(島崎藤村)『橋のない川』(住井すゑ)などを読んだが、もはや差別は過去のものであり、歴史の一部として捉えていた。まさか現代の日本で差別や排外主義をここまで身近に感じるとは。

 

差別感情に染まるかそうでないかは紙一重かもしれない。私の中にも差別感情はあって、それがいくつかの作品によって薄められてきたように思う。『フリーダム・ライターズ』『アメリカン・ヒストリーX』『遠い夜明け』『フィラデルフィア』『ザ・ハリケーン』『カラー・パープル』などなど。作品の力は大きい。

 

 

▼いとこから電話。5月に首を骨折して入院中の伯父の経過を聞く。手術から一週間ほどで面会可能になるとのことだったが、治療がうまく進まず、病院から連絡があったのは結局一カ月以上も経った7月初旬だった。今後はいとこの家から5分ほどの病院に転院し、リハビリをしていくとのこと。まずはよかった。

 

いとこは4月に伯母が亡くなり、今度は伯父の首の骨折、入院と災難続き。しかし、彼女は「周りに、親が首を骨折したというと、たいていこっちのワガママが通るからラッキー!」と明るかった。前向きすぎて引く。おまえ、もっと落ち込んでいけ。いとこの明るさはどこから来るのだろう。人は困難な状況にあるときこそ真価が問われるが、私が彼女の立場だった場合、こんなに明るく振る舞えるだろうか。尊敬する。それか、何か怪しいクスリをやっている可能性がある。間違いない。あいつは昔からどうかしてたんだよ。

 

 

▼Backpack Hero

ダンジョン探索ゲー『Backpack Hero』をやる。ダンジョンでアイテムを拾い、鞄の中身を並べ替えることでアイテムにさまざまな効果が発動する。パズル要素が高くて面白い。こういうゲームがあったのだな。まだまだ面白いゲームはある。

あなたの好きなものを他人から評価される理由はない

▼七月が始まる。旧暦では文月。詩歌を詠んだり、書道の上達を願うところが文月の由来。由来を知るも、毎年なにも上達せぬまま文月を終えている。

 

母の関節リウマチも和らぎ、ようやく落ち着いて本を開ける時間も増えてきた。夜更けに『半自叙伝』(古井由吉)を読み終わる。じじいなので、じじいの本を読む七月だ。古井由吉は淡々としている。自分のことを語っても、他人のことを語るような距離感。冷たいというのではなく、公正というか。なんだか全体的に「どうでもいい」という突き放した感じもして、そこに親しみを覚えたり。

 

近所の農家で茄子三本を百円で購入。うししし。また茄子の焼きびたしが食べられる。隣人からジャガイモとキュウリを頂いたのでポテトサラダも作る。

 

 

▼賛否両論わかれる『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』(ジークアクス)を観終わった。なるほどー。じゃ、私は否の方で。

 

『ジークアクス』の感想はまたいずれ書くとして、賛否がわかれる作品についての議論をみると、本当に同じものを観たのかな? と思うぐらい両者の意見がかけ離れていることがある。それは、作品そのものへの評価と背後にある物語への評価の違いに思える。

 

かつて知人から好きなアイドルグループを薦められた。私にはまったく良さがわからなかった。そもそも大勢の歌が好きではない。大勢で歌うと歌声が濁り、個性が消失するというか、どの歌声も同じように聴こえてしまう。だから、私にはそのグループはまったく響かなかった。

 

私は歌、容姿、踊りなどを一度見ただけの評価しか持っていない。知人はもっと別のものを見ているのだろう。握手会にファンが一桁しか来なかった時代からドームでコンサートをやれるようになったとか、メンバーが衝突を繰り返しつつも今では肩を並べて歌っているとか、昔は歌も踊りも下手だったのに後輩を指導しているとか、画面には映らない成長の物語があって、今の形になっている。おおげさにいえば、歴史を知っている。

 

だから作品そのものを評価した人と、背景にある物語を含めて評価した人の評価が一致するわけはない。コメント欄で☆1と☆5で分かれるのも、作品自体を評価した者と、作品の背後にある物語を含めて評価した者の対立なのかもしれない。評価する軸が違うのだ。極端にいうなら、自分の子供の運動会を見ている親に「ウサイン・ボルトより早く走れないから見る価値がない」というようなもの。親は子の努力や成長を知っているから、ただの徒競走でも十分感動するのだろう。

 

物語は作り手側だけでなく、受け手の観客側にも発生する。自分のつらい時期、部活・勉強・仕事などで悩んでいたとき、その曲を聴いて乗り越えたという経験でもいい。そうなると、ただの曲に物語が生まれる。それは、誰かが一度だけ聴いて「つまらない」と思ったものとは違うものなのだろう。他人にとってはつまらなくとも、自分にとってかけがえのないもの。それを批判されたとき、人は怒ってしまうのかもしれない。

 

もちろん作品そのものへの批判は無駄ではない。特に同業者からの指摘は作品の質を向上させる。だが「あの作品はゴミ」といった、そういったメッセージに耳を貸す必要はないだろう。

 

前述の知人が私に「五十を超えてアイドルを応援してるのって気持ち悪いかな?」と訊いた。私は「めちゃくちゃ気持ち悪い」というと、知人はのけぞっていた。だが、他人になんといわれようと気にする必要はない。自分が好きなものは自分で決めればいい。あなたが好きな何かを批判する人は、あなたが抱えている物語まで知るわけではない。だいたい、まともな人間は他人が好きなものを笑ったりはしない。そんな嫌なことをいう人間の言葉に耳を貸す時間はない。誰かの評価を気にして物事を判断することに意味はない。あなたの人生なのだから。あなたが好きなものは絶対だ。

 

仮に、あなたの好きなものを「変だ」とか「気持ち悪い」とかいう人がいれば、私はいってやります。「こいつの気持ち悪さはこんなものじゃない。見くびるな!」と。ただ、私に訊けば、それは「気持ち悪い」といいますよ。当然、私のいうことなんて聞く必要はない。

 

 

▼映画の感想『ベイビーガール』を書きました。ニコール・キッドマン主演のエロティックスリラー。しかし、上であんなことを書いたにもかかわらず、悪口ばっかり書いてしまったな。ま、そういう日もある。