玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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最期の言葉

▼庭で採れた梅を漬けた自家製梅干しを頂く。今まであまり梅を使った料理をしてこなかった。どういうふうに使えばいいのだろう。思えば去年頂いた梅干しもまったく減ってないのだった。卵焼きにみりんと梅肉を入れてもよいようだし、鶏を焼いて梅肉ソースをかけてもよいらしい。今年こそ使わねば。ああ、もう2月も終わる。

 

 

 

▼針の代わりに浮遊する球体が周る時計

SF映画のオープニングのような宣伝。不思議な時計ですね。地面に平行になるのはいいとして、壁に設置もできる。どんな仕組みになってるのだろう。欲しいなあ。

 

 

 

しかし、こんな時計が似合うようなおしゃれな部屋に住んでないのだった。それどころか、近所からはゴミ屋敷と罵られ、道で会えば石を投げつけられる日々。常に放火におびえながら暮らしている。道行く人がいれば、全員が放火魔に見えてくる。他人とってはゴミでも、ここにある物たちはあたしにとっては宝物なの! 放火しないで! あたし、歯を食いしばりながら今日も生きてる!

 

なんだこの文章。なんでこんなことに。いい薬が必要です。

 

 

 

▼アインシュタインの死に際の話。76歳のアインシュタインは死の間際にドイツ語で最期の言葉を残す。だが、その場にいた看護師がアメリカ人だったため、彼が何をいっていたか理解できなかったというもの。一般的には残念な逸話として語られるが本当にそうだろうか。

 

最期の言葉は「ありがとう」かもしれないし「窓を開けてくれ」などという、よくある頼み事かもしれない。また、物理学について価値ある言及をしてこの世を後にしたのかもしれない。「ちょっと紙とペンをとってくれ」だったら、何かすばらしいひらめきがあったのではないかとワクワクしてしまう。

 

だけど、もっともすばらしいのは未知だろう。わからないからこそ、この逸話を聞いた人の想像はどこまでも自由に膨らむ。わたしも最期には「ゴニョゴニョゴニョ‥‥」といって亡くなりたい。だが待てよ、アインシュタインの場合「何か価値あることをいったのでは」と思われるだろうが、わたしの場合「聞かなくてよし」となるのではないか。なる。今まで何一つ有益なことをいってこなかったからな。

 

そうか。嫌なことに気づいてしまったな。