玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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マグロのほほ肉

▼スーパーでマグロのほほ肉を見かけたので買ってみた。居酒屋などでカブト煮は食べたことがあったけど、脂っこくてそれほど好きではなかった。

 

今回は煮るのが面倒なのでステーキにする。塩コショウで下味をつけて10分ほど置き、ペーパータオルで水気をふき取った後に片栗粉をまぶして焼くだけ。身から脂が出るのか、ほとんど油を足さなくても大丈夫だった。とても柔らかく脂も乗っていて、噛んだときに肉汁がジュワッと出て想像以上においしい。臭味もないので驚く。カジキを焼いたときのようにパサパサになるかと思っていたら、全然そんなことはない。

 

今までそれほど話題になっていなかったと思うが、これほど美味いとは。江戸時代、マグロは痛みやすく、腐らぬように醤油で漬けにして食べられていた。だが、醤油がしみこみにくかったトロは捨てられていたという。ほほ肉もトロと同様、みんなまだその価値に気づいてないのではないか。それともほほ肉の味をひた隠しにし、密かに楽しんでいたというのか。むむむ、許すまじ。こんな美味しいものが一人前300円ぐらいで買えるなんて。

 

今日、わたしはほほ肉の美味さに気づいてしまった。今後はこれを「まずいまずい」と布教し、ほほ肉の需要を下げて独り占めしたい。心狭く生きていきたい。ほほ肉の美味い調理法がありましたら是非教えてください。密かにほほ肉の美味さを共有していきましょう。ああ、まずいまずい、見るのも嫌だ。

 

 

 

▼仕事でセミナーに出る。「先行きが見えない時代といわれますが」という出だしから始まった。

 

だが、今まで先行きが見えていた時代というのは本当にあったのだろうか。先行きが見えていた時代があったとして、なぜ見えない時代に突入してしまったのか。だとすると、それは見えてなかったことになりはしないか。先行きが見えていたのは錯覚で、単に景気が良くてお金が入ってきた時期のことを「見えていた」といっているだけに思える。金利がいいとかね。ようは、お金が入るか入らないかでしかない。先など見えてないのだ。

 

勝海舟の談話をまとめた「氷川清話」の中で、勝は10年先のことはわからないといっている。勝にわからないのに凡人のわたしにわかるわけもない。10年先はおろか今晩何を食べるつもりかもわからない。それはわかれよと思いますけど。

 

そもそも自分のこともわからぬ人間である。だが、自分のことをわかっている人間がどれだけいるか。わからぬ人間が無数にうごめいて好き勝手やるのだから、未来などわかりようもない気がする。そんなことを冒頭10分ぐらいボーっと考えていたら、セミナーの話の流れもすっかりわからなくなってしまった。わからぬことだらけである。一番前で聴いていたものだから、途中で寝ることもできずに困った。後ろにすれば良かった。なぜこのような席に。眠気との戦いである。前をにらみつけるようにして眠らないよう踏ん張った。

 

セミナー終了後、講師の方から「ずいぶん熱心に聴いてらっしゃいましたね」と声をかけられた。何もわかってない。だがそれでいい。わからなくてもいいことがある。それこそが大切なこと。いつかわかる日がくる。わからないということはこれからわかる可能性を含んでいる。わかろうと思う限り扉は開かれている。

 

駄目だ。無理にいい話にするのは限界がある。なんだよ、扉って。頭おかしいのか。バカバカしい、あたしゃもう寝るよ。今日わかったのは、ほほ肉の美味さ。それだけは確かなこと。