玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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ルール

▼日中はだいぶ日射しが柔らかくなってきた。だがもう立春とはいえ、日が落ちてからはまだまだ寒い。

 

図書館へ。館内で携帯電話に出る人あり。二度も出て、わりと大きめの声で話していた。ああいうとき、不思議と軽くいらだってしまうのはなぜだろう。会話のうち半分しか聞こえず、内容が気になってイライラするからという分析がある。でも今日、実際にそばで聞いていてそれはちょっと違うように思った。見ず知らずの人の会話の内容に興味はないし、会話が半分でも内容がわかる場合もある。

 

それで考えたのは、その人がルールを無視しているからではないか。自分はルールを守っているにもかかわらず目の前で堂々と破られているのは、なんだかこちらがバカみたいである。それか、目の前でルールを破っても、こちらが何も文句をいってこないと思い込んでいる傲慢さなのだろうか。簡単にいうと舐められているという。その侮辱に対する憤りなのか。

 

じゃあ、ここに普段はルールを破るAさんがいたとして、Aさんの前でBさんが使ってはいけない場所なのに携帯電話を使ったとする。この場合、Aさんは腹が立たないのだろうか。自分も普段はしているからなんともないのか、それとも自分のことは棚に上げて怒り出すのか。理屈からいえばAさんが怒り出すはずはないのだけど、なんだかそうはならないような気もするのだ。ルールを破る人の気持ちになって心境をトレースしてみたけどわからない。個人差も大きそうだけど。

 

目の前で、携帯電話を使っていた人に「どうなんですか?」と訊いてみたかったがやめた。頭がおかしいと思われる。

 

わたしは正常、わたしは正常、わたしは正常。よし大丈夫。

 

三回も書くとかなり怖い。やめとこ。

 

 

 

上岡龍太郎さんがどこかで年賀状を一切出さないという話をしていた。あれはなぜだろう。単に面倒というのなら、それはそれでいいのだけど。伊集院光さんもラジオで葬式には一切行かないといっていた。あれも不思議だ。そういった行事を大切にしている人たちも多いから、そういう人に配慮してか、二人とも理由は口にしなかったように思う。

 

ここ何年か、慣習や行事に参加する意欲が減退してきている。この前、叔母の葬式に出たけれど、やはりわたしは出るべきではないんじゃないかと思っていた。信仰心がまったくないのだし、死後の世界や霊も信じてない。そんな人間が葬式に出る方がかえって誠意がないように思うのだ。お経も焼香もなんの意味も感じない。こんなことを40になってからも思っていることに、自分でもちょっと引きますけど。そういう折り合いって少なくとも高校ぐらいにはつけられそうな気がする。つかないまま、こんな歳まで来てしまった。重症である。

 

そんでまあ恵方巻ですよ。にぎわっておりましたね、恵方巻売り場が。わたしも買って帰った。三本も買って帰った。ノリノリである。なぜ恵方巻には乗れて葬式には乗れないのか。恵方巻が持つ露骨すぎる商売根性がかえって抵抗なく乗れるのだろうか。乗ったところで、どうということはない。美味いだけだし。軽いからこそ乗れる、重いからこそ乗れないということなのかな。

 

しかし、なぜこんなどうしようもないことに頭を悩ませるのだろう。そもそも40歳ともなれば住宅ローンに悩み、子供の反抗期に悩み、奥さんの不倫に悩むのが正しい40歳の過ごし方ではないか。わたしにはどれもない。家、買おうかな。家は欲しくないが住宅ローンが欲しい。「35年ローンでねえ。懲役35年ですよ~」って自慢したい。誰か、わたしに支払いを肩代わりさせてくれないものか。

 

わたしは正常、わたしは正常、わたしは正常。