玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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幸福と不幸の感じ方

▼買い物。寒さも緩んできて陽の光が柔らかくなってきた。春の訪れと共に花粉症の訪れも感じる。ムズムズ。

 

歩いてしばらくすると靴の中に何かあることに気づいた。どこかで小石が入ったらしい。靴を脱いで逆さにすると小石が出てきた。哲学者のショーペンハウアーは、人がふだん健康体でいてもほとんど幸福を感じないが靴に小石が入ったときは如実に痛みを感じると書いている。人は幸福を当たり前として受け止めてしまうが、不幸については敏感に反応してしまう。

 

ショーペンハウアーは小石が靴に入ったとき、幸福と不幸の関係について考えたのだろうか。私は、小石が靴に入ったとき「小石が靴に入ったな」と思いましたね。ここに私とショーペンハウアーの差がある。同じものを見ても、ボーッと生きているとここまで感じ方が違うものか。

 

ショーペンハウアーは昔の人ですが、中学生ぐらいでも読めるので嬉しい。言い回しがやたらかっこう良くて、友人とトランプをやるときに良く使っていた。「運命がカードを混ぜ、俺たちが勝負する!」など。「人生は配られたカードで勝負する」という警句があるが、これもショーペンハウアーの言葉を少しかえたものかもしれない。中二心に刺さる言い回しなのだ。

 

学校の先生は「本を読め」といっていたが、ショーペンハウアーの言葉はそれより少し先にあるように感じた。「読書とは、自分ではなく他の誰かにものを考えてもらうこと」と書いており、新鮮な驚きを覚えた。内田百閒も似たようなことを書いている。「読書は他人のおしゃべりを目で聴いているようでうるさい」だったかな。

 

ショーペンハウアーも百閒も当然読書を否定しているわけではない。読書はあくまで道具や材料でしかなくて、最終的な目標は自分の頭で考えることだろう。たとえ本に答えが載っていても、自分の頭で考える必要がある。あっているか間違っているかは問題ではない。なぜわざわざ自分でものを考えなければならないかといえば、人生の主人公は自分なのだから。人の考えをなぞるのではなく、自分で考えることこそが生きることである、というのが学生時代に私が出した結論だった。

 

あれから30年以上経った。このことについては、特に意見は変わっていない。というか、あらたな発見は何もなかった。進歩ゼロでここまでやってきた。30年間ずっと寝てたのでは。恐ろしい。

 

今日は、二年ぐらい前からひたすら「閉店セール!」をやり続けていた店が本当に閉店していたのを見た。目を疑うとはこのこと。永遠の閉店セールではなかったのか。ショーペンハウアーは「永遠は一瞬の中にある」といった。そうか、まさにねえ、などと。

 

なにもわかってない人間のブログ、よく読んでいるな。

 

 

▼打ち合わせ。公の場で、X(旧ツイッター)、インスタグラムなどは滑らかに口から出るがTikTok(ティックトック)だけはまだ恥ずかしい。チックトックといってしまって笑われないか心配だ。ジジイは口が回りにくい。

 

私はおじさんが恐る恐る「ティックトック」と口にするのを注視している。“変なこといってないよな”と、微妙な照れと不安が入り混じった口ぶりになるのを感じる。共感性羞恥でドキドキする。SNSやショート動画といえばいいのに、無理してティックトックといっているのが若者の文化もわかっていますといっているようでたまらない。興奮する。新しい扉が開いたのかもしれない。

 

ゴリラ部長が緊張して「ティ、ティックトック」といっているのを見て「ジジイが無理してティックトックといってるのを見るのはたまらんな」といったら、首を絞められた。私なりの誉め言葉だ。わかりませんか、この感覚。

 

 

▼Marvel Snap

コンクエストのインフィニティで5連勝がずっと達成できない。あのモード難しすぎるのでは。せめて4勝にしてくんろ。ヘラ、モードック、ドラキュラ、ヌル辺りがくればなんとかなるのだろうか。ならん気がする。腕がないもの。

 

 

▼今日もAIにブログタイトルを提案してもらうと「若者の文化に興奮!ティックトックの扉」と出してきた。あいかわらずポンコツで和む。だが、ひょっとしてですよ、私が安堵することを見越してAIのやつはわざとポンコツな提案を‥‥ま、まさか、これはAIによる高度な介護? そ、そんな‥‥私はいつのまにかAIの掌の上に‥‥えええええ!? 

 

アホらし、そんなわけあるかい。あいつはまだアホ。全国の駅名をいえるだけの幼稚園児。などと思いながら2月も終わる。