玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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小さい人のまなざし

▼図書館でノッポさん(高見嘉明)が書いた本を見かけた。学校を休んだとき『トムとジェリー』はよく観たが、ノッポさんやゴンタくんが活躍する『できるかな』はあまり観なかった。山高帽の下に光るノッポさんの目が怖く思えたのだ。あの目、三人ぐらい殺っている目をしている。子供心にそう思っていた。

 

ノッポさんの本を読むと子供を子ども扱いしていないことがわかる。一人の人間として人格を認め「小さい人」として扱っている。子供を対等に扱うということは「子供だから」ということで免責されないことでもある。フェアだとは思うが、厳しさをどこかで感じ、避けてしまったのかもしれない。

 

ノッポさんが幼稚園に通ったときのエピソードが印象的だった。ノッポさんの従妹(いとこ)は社長令嬢で、幼稚園に送迎してもらっていた。送迎といってもリアカーに自転車をつけたもので、その自転車をおじさんが漕いでいく。ノッポさんの家は送迎にお金を払っていなかったのでリアカーに乗ることはなく、ノッポさんはそのリアカーの横を走り、坂道ではリアカーを後ろから押してやっていた。

 

ある雨の日、母親はノッポさんに「あなたも知り合いなんだし、乗せてもらえばいいんじゃない?」という。ノッポさんはおじさんの苦労を知っていたので断ったが、母親はおじさんに交渉し、ノッポさんは初めてリアカーに乗ることになった。ノッポさんは、おじさんが子供を送迎する仕事をしているのだから、きっと子供が大好きなんだなあと思っていた。

 

幼稚園につき、お礼をいってリアカーを降りると、おじさんの憎悪に満ちた目があった。それは「タダ乗りしやがってこの憎たらしいガキめ」というものとも違う。「こんな仕事、俺のする仕事か」という誰にもぶつけようのない恨みがこもっていた、そう書かれている。それ以来、ノッポさんはおじさんに近づかず、程なくしておじさんはいなくなり、新しいおじさんが来たという。

 

どんな感情で読めばいいの、この話。ノッポさんを陽気な工作おじさんという目で見ると痛い目にあう。やはり、子供の頃に感じた「三人ぐらい殺っている」が正しかった。本はインタビュー形式で書かれた短い物だったが、この不気味なエピソードが読めただけで価値があった。

 

私は「子供が苦手」という人に会うと、正直だなと思ってしまう。子供や動物が好きといえば、優しいイメージがある。それをあえて苦手ということに正直さを感じるし、またその気持ちもわかるような気がするのだ。自分が子供だった頃を思い返せば、驚くほど愚かな面もあれば、大人が考えもしないほど鋭い面も持っていた。無邪気であり、残酷でもあった。大人は社会に適合するため、邪悪な面をうまく隠せるが子供はときにそういった邪悪さが顔をのぞかせる。子供の頃を完全に忘れていない人は、過去の自分を鑑みて「苦手」と思うのではないか。大人がいい人だけでないように、子供だっていい子ばかりではない。ノッポさんのように、大人の嫌な部分を見抜く目をもった子供もいるだろう。だから侮れないし、苦手であって当然とすら思う。法律上は「大人」「子供」は存在するが、本当は大人も子供も存在せず「大きい人」「小さい人」がいるだけなのだろう。

 

 

▼映画の感想『serch / #サーチ2』を書きました。母親の失踪をネットを駆使して追いかけるサスペンス。いろんなことができるんですね。相当な情報を入手できる。パスワードをクラックされると大変だなとも。