玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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会長の猫

▼お世話になっていた会社へ。会長はあいかわらずで変わりがない。『笑点』で緑の着物をきた桂歌丸さんという噺家がいたが、歌丸は私が子供の頃からおじいちゃんだった。いつ見てもおじいちゃんだった。会長も、出会ったとき既にお年寄りだったため、今見てもお年寄りというか変化がない。ロボなのでは。本当は確実に老けていっているはずだけど、脳が「お年寄り」と認識してしまい、それ以上の観察を拒むのだろうか。しげしげと見たがやはりお年寄りのままだった。「お、まだ生きてるんですね」というとフンと鼻で笑った。まだゾンビ化はしていない。

 

従業員が会長の飼い猫の話をしていた。「名前つけないって、あんまりかわいがってないんじゃない?」「昔の人だからそういうものかもよ」などといっている。会長の猫にはまだ名前がない。会長に似てふてぶてしい猫だ。

 

以前、会長のお宅にお邪魔したことがある。会長と私が話していると、太った茶トラの猫が居間に入ってきた。侵入者である私を警戒するでもなく、のっしのっしと歩いてくると会長があぐらをかいている膝の上にスポンと収まった。そこが自分の居場所であることになんの疑いもない態度、百年前からそうしてきたようだった。会長は猫を見もしない。ただ、そっと手を置いて猫を撫でていた。

 

会長が猫を呼ぶとき「猫」とか「おい」とかいう。ある日、会長は道で轢かれた母猫を見つけた。そのそばには、母猫の遺体を見つめて震える茶トラの子猫がいた。今のように太ってもおらず、ふてぶてしさの欠片もない。片足はびっこを引いており、怯えているようだった。会長は子猫をつまみあげると懐にいれ、その足で医者に連れて行った。子猫の片足は折れており「これはあまり長くは生きられないかもしれないね」といわれたという。会長が猫に名前を付けなかった理由はわからない。長くは生きられないといわれて、情が移るのを嫌がったのかもしれない。

 

猫が会長の家にきてから15年以上たつ。面倒をきちんとみなかったら、それほど長く生きられなかったかもしれない。名前がないからといって、かわいがってないということもない。本当のところどうなのかは猫と会長しかわからない。私がしゃしゃり出て「会長は猫をかわいがってると思います」というのも変な気がして、何もいわなかった。かわいがってないかもしれないし、明日の晩飯のおかずにと考えているかもしれない。人の心はわからない。

 

そういえば漱石の小説『吾輩は猫である』のモデルになった猫にも名前がなかった。漱石は猫が亡くなった際に、庭で猫の葬儀をおこなっている。知人への手紙にも猫が亡くなったことが書かれている。どれぐらい大事に思っていたかは、本当のところはその人以外わからない。漱石の猫も最後まで名前がなかった。

 

 

▼映画の感想『英雄の証明』を書きました。『別離』『ある過去の行方』などのアスガー・ファルハディ監督作品。人間の描き方が複雑で、いつも感心してしまう。今回もどうとらえたら良いかわからない作品でモヤモヤしました。善悪について考えさせられる作品。