玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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髭の人

▼相撲が始まっていたので久しぶりに観る。コロナ禍の最中、お酒を飲んでいたのが問題になり謹慎していた朝乃山と阿炎(あび)。謹慎中に番付は下がったが、いつの間にか二人とも上がってきていた。謹慎前、朝乃山は鮮やかな紫のまわし、阿炎は赤で、共に派手な印象があった。だが、謹慎後は黒のまわしに変わっていて面白い。もし前の色のまわしなら「あんな派手なまわしで反省しているのか」と、怒るファンがいるのかな。まわしを地味にしたら反省しているという謎ルールはいつできたのだろう。

 

仮にだが、妻に浮気がばれてパンツを黒にしたらどうか。「おまえ、ふざけてんな?」となるのではないか。うーん、まわしを黒にねえ。はたしてそれが正解なのか。よくわからない。隙あらばどんな小さいことも叩かれるから、先回りしてあらゆるところをディフェンスする。そんな風潮ができあがっているように思える。窮屈。いっそ、まわしを金色にしてほしかった。それで「え、なにアイツ? 調子に乗ってる?」とおかしな空気になってほしかった。

 

 

 

▼9月8日にサービスが始まった『SYNCED』という基本無料のTPSをプレイ。オンラインゲームも中国産が当たり前になってきた。『DESTINY2』に似てPVP、PVEがある撃ち合いのゲーム。ちょっと地味なものの、やり続けていると面白くなってきます。システム説明が不親切で、わりと重要なことをいわないのが面白い。見ておぼえろという職人の雰囲気があります。単に不親切ともいえますけど。

 

PVPは3人のチーム戦とソロがある。チーム戦を一戦やってみたのだけど、このゲームはボイスチャットをオンにしてプレイすることができる。チームメンバーと会話しつつ、連携をとりながらやれるようになっている。私はマイクを切っていて、自分の声は入らないようにしている。チームメンバーの一人は、自分のマイクがオンになっているのを忘れていたのか、ずっと電動シェーバーのブィーンという髭剃り音が聞こえていて面白い。髭剃りながらゲームをやっている人がいるのだな。斬新なプレイ。いったい何を聞かされてるんだ。何ハラなのか、これは。

 

のんびりしたゲームではないので、とても髭剃りながらやれるとは思わないのだけど普通にプレイできている。それとも彼(彼女?)がプレイしている横で、他の誰かが髭を剃っているのか。思わずチームチャット欄に「髭、剃ってます?」と打ってしまった。私と同じく沈黙していたチームメンバーの一人から「やっぱり髭ですよね、これ?」と返信があった。当の本人はゲームに夢中なのか、髭剃りに夢中なのか、日本語が読めない外国人ということもある。返事はなかった。「絶対髭剃りですよねえ」「でもゲーム中に髭剃りて」「前代未聞や」などと髭剃りだけで盛り上がっていた我々は、よそのチームから奇襲を受けてあっさり全滅した。髭剃ってた人も死んだ。だが、彼は死につつもまだ髭を剃り続けていたのである。なにこの話。

 

 

 

▼AI生成『What is a human life?』

 

AI生成の絵を出力するときはプロンプト欄にどういったものを出力したいか書きます。画質、タッチ、キャラクター属性(性別、年齢、職業、衣装など)、さらに上のような絵だと『横たわる男(女?)の子、図面を見ている女の子、薄暗い部屋、資料などが壁に貼られている』などと動作や背景を英語で書いていく。

 

それが通常の作り方ですが、なんとなく「What is a human life?」(人間の命とは何か)とだけ打ってみた。それで出たのが上の画像。普通、プロンプトを疑問文で打つことはない。訊いたことを絵で回答するような仕組みは実装されていない。単なる偶然でも、こういった絵が出力されたことに少し驚いた。背景にメモ書きや資料などが貼られているが、こういったものはプロンプトに指定しないと出ないのだけど不思議。

 

この絵は少女が図面を見ながら、人間のようなものを作っている(修理している)ように見える。壁一面に資料が貼られ、人間を構成するデータや材料は揃っているのかもしれないが、それでも人間を作ることはできない。そんな絵に見える。彼女はAIなのだろうか。ヒトゲノム計画によって人間の遺伝子解析は完了したが、それで人のすべてがわかったということではない。AIがこんな絵を出すことに不思議さを感じた。他にも「What is a human life?」で何枚か出したが、まったく違う構図や状況になってしまい、この最初の一枚だけが意味を感じられるものだった。

 

 

 

▼友人が『カルテット』というドラマが面白いと書いていたので、一息に観て感想も書いた。ドラマはとても面白かった。あらためて感想を読み返してみたら「好き」が溢れていて、とても恥ずかしくなった。好きなものを語るとき、人は隙だらけになってしまう。その様子はちょっとマヌケだし「浮かれてるな、こいつ」と見えるが、一生懸命に好きなものを語る姿は微笑ましい。冷静な分析よりも、カロリーの高い浮かれた感想のほうが読んでいて楽しい気分になることもある。楽しさがこちらに伝染してくるのだ。

 

思えば人は、自分の好きなものを知られることがちょっと恥ずかしい。好きな歌手だったり、作家だったり。どこかでそういうものを秘密にしておきたい気持ちが働く。自分を形作るもの、心の底を見透かされるようで恥ずかしいのだろうか。好きなものを批判されるのが嫌という人もいるけど、私はそうではなくて、隙だらけの自分を見られるのが無性に恥ずかしいだけかも。しかし、隙だらけでもいいではないか。忍者でもないのだし。

 

なぜこういうことが恥ずかしかったり、嫌だったりするのだろうか。好きなものを知られることで、どんなデメリットが生じるのかと考えてみたがよくわからない。好きなものには周りに知られたくない、自分だけのものにしておきたいと同時に、みんなにも知ってほしいとか、一緒にその話題で盛り上がりたいという感情もある。相反するのが面白い。今年になってサッカーが好きになった。まだ増えるのだな、好きなものが。好きなものが増えると、物の見方、考え方が増えるように思う。好きなものがどんどん増えていけばいいけど、そうはならないのだろうか。「好き」に費やせるエネルギー量が決まっているようにも思える。あるものを好きになったら、他のものはそれほど好きじゃなくなったり、忘れたりするのだろうか。「好き」の量は一定なのか。