玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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コンセントプレートの交換

▼AI生成、富士。

 

わりと古めかしい感じで出てしまった。プロンプトに江戸時代、墨絵を指定したからかな。

 

 

 

▼家の電気スイッチの枠が外れるようになった。直してもすぐに外れ、いいかげん鬱陶しかったので交換。外れたカバーの裏側を見ると四か所あるうち三か所の爪が欠けていた。これでは外れるのも無理もない。おまえ、今まで一人でがんばっていたのだな。ありがたや。特に資格もいらない作業なので自分でやることにする。交換に手間取ったので備忘録に残しておく。

 

 

こういう見た目の、どこのご家庭にもいるやつ。代わりを注文しようにも、そもそもこの名称がわからなかった。電気やコンセントの周りのアレであるが、人生であれのことを呼んだことがない。「電気つけて」という言葉は使うが「電気のスイッチの周りのアレをなんとかして」という需要がなかった。どうやらアレの名前はコンセントプレートとか、スイッチプレートとかいうらしい。ついに名を呼べる。ヴォルデモート卿のように名前を呼んではいけない存在かと思った。

 

型番はプレートの裏面に書いてあるが読みにくい。メモ用紙を押し付けて、上から鉛筆でこすると型番が浮かびあがる。名を呼べない禁忌の存在なので型番を調べるのも大変。以前についていたものは松下電工のWN6201だった。松下電工というのが時代の移り変わりを感じさせる。代わりにどれを付けてもいいわけではない。プレートはフルカラー、コスモ、ラフィーネア、アドバンスと4種類あるようです。違うものだと付かないことも。型番がWNから始まるのはフルカラーという情報を得た。フルカラーという名前は色がきれいだからフルカラーモダンプレートという名前で売っているだけかと思ったが、そうではなかった。フルカラーシリーズですよ、ということをいっていたのだ。そんなルール知らないもの。

 

 

今回は二か所交換するのでヨドバシ・ドットコムで二つ購入。家のはWN6201(一つ穴)とWN6202(二つ穴)だがいずれも生産終了。代わりにPanasonicのWN6001WP、WN6002WPを購入。それぞれ120円ぐらい。いいんですかこの値段で、と思ってしまうな。翌日に届いて作業開始。外から見える化粧プレート(表側)と、プレートをはめる土台がついてきます。

 

危ないのでブレーカーを落としてからやりましょう。これはPanasonicの違う商品ですが、取り付け手順はこんな感じ。

 

 

で、プレートを外すとスイッチと土台をくっつける埋込取付枠というものが出てくる。c枠、金属枠などともいうようです。

 

 

交換前の部品は、2⃣の位置(化粧プレートと土台の間)にこの金属枠がはまっていました。同じように取り付けてみると、プレートが膨らんでしまって閉じない。WN6001WP用の金属枠は買っていなかったので、これを買わなければいけないのかなと思ったがそうではなかった。新商品は土台の下(1⃣の位置)に付けるよう仕様が変わっていたのです。これに気づくのに時間がかかった。そういう重要な変更、一言欲しかった。WN6001WP君、そういうところある。

 

それと壁にコンセントプレートを取り付けるため、上下二か所を太いネジで固定している。取付金具、壁、土台をこのネジで締めることで接着剤などを使わずに壁に固定できる。この取り付け金具はプラプラ浮いていますので、ネジを外すとき壁の向こう側に落下させないよう気をつけてください。落とすと、ほぼとれません。ネジを完全に外さなくても、緩めるだけで取り替えはできるかも。慣れたら5分ぐらいでできるように思います。取り替えて無事に点灯した。ほほほほほ。小さなことを成功させると、それだけでもちょっとした自信になる。DIYは精神に良い。楽し。

 

 

 

▼先週、草刈正雄さんの『ファミリーヒストリー』を観た。普段この番組を観ることはまったくなくて、本当に偶然観たのだけどとてもよかった。草刈さんはハーフだったんですね。日本人の母親とアメリカ人の父親の元に生まれている。だが、父親は理由を明かさないまま帰国してしまった。母親から父親は「朝鮮戦争で死んだ」と聞かされて育つ。

 

草刈さんのお母様はバスの車掌をしていて父親と出会い、二人は同棲生活を始めるが草刈さんが生まれる前に父親は帰国。今よりもシングルマザーについて世間の目が厳しい時代、ましてハーフの子供を育てる母親の苦労は並大抵のものではないだろう。番組では触れられなかったが、アメリカ人相手に売春をしたと見られることもあったのではないか。母が赤ん坊だった草刈さんを抱え、線路に飛び込もうとしたという話もあった。草刈さんも「あいのこ」といわれ、いじめられたことがあると語っていた。なぜ父が自分と母を捨てたか、何度も考え、恨んだこともあっただろうが、番組ではいっさい恨み言は口にされていなかった。

 

父親がアメリカへ帰国したのは1952年ぐらい。まだアメリカではアジア人や黒人の人権が制限されていた。公民権運動によって白人と同等の権利を手に入れるのは1960年代。日本はかつて敵国だったし、まだ日本人を恨むアメリカ人は多かっただろう。父親がアメリカへ妻子を連れて帰るのをためらう気持ちも理解できる。考えたうえでの決断だったのだろう。父親が帰国後、日本に妻子を置き去りにしてきたことを苦しみ、神経衰弱になったことから相当苦しんでいた様子がうかがえる。

 

草刈さんは顔もスタイルもよく、育ちも良さそうに見えた。裕福な家庭に生まれ、トントン拍子に俳優の道を歩まれたのかと思っていたがまったく違った。父親のいない生活は困窮していて、中学時代は朝4時から新聞配達をして家計を助けたという。芸能界に入ったのも、母親に楽をさせるためだったという。番組の最後には父親のお姉さんと出会い、抱擁していた。誰かを恨んで生き続けるのはあまりにもつらい。草刈さんのわだかまりがすべて解けたわけではないだろうが、それでも良かった。