玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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私もマリーナに行きたいんだ

▼SNSで「狂人」と書いて「くるいんちゅ」と読ませているのを見た。「くるいんちゅ」より「くるんちゅ」がいいのではないか。なにせ語呂が悪いよ「くるいんちゅ」は。「くるんちゅ」のほうが断然かわいいだろうが。そんなくだらないことを書いている間に8月突入。月日は無情。

 

3月ぐらいに播いたバジルの種、いつの間にかワサワサ茂っていた。どうするのだ、これ。調べてみると松の実やオリーブオイルとミキサーにかけてバジルソースにするらしいが、松の実はないし、ミキサーを出してというあたりがもう面倒くさいんだよな。バジル、生で食べたらいかんのか。

 

 

 

▼買い物。帰り道、二人の老婆が自動販売機の横に伸びていた。座っているのではなく、猫がアスファルトで体を冷やすように本当にぐて~っと伸びていた。熱中症で参っているのかと声をかけると「休んでるだけ。ごめんね」というので安心する。ジュースも飲んでいた。たしかに伸びたくもなるほど暑い。老婆の干物を見てから帰宅。よいものを見た。

 

 

 

▼AI生成画像。

 

湖の表面が鏡のように反射するウユニ塩湖という場所があります。AIのプロンプトでも「Salar de Uyuni」(ウユニ塩湖)といれると、ちゃんと認識されるんですね。これ、影の先端がこちらを威嚇する黒猫にも見える。そういえばプロンプトに「猫」を入れた気がする。

 

 

 

▼隣席のTさんが「狙っている男」とついにドライブデートに行ってきたというので話を聞く。「狙っている男」という言葉を聞くたびになぜか笑ってしまうな。これはあれか、声に出していいたい日本語ということでしょうか。

 

朝、車で迎えに来てもらってマリーナに行って、男性が所有しているボートに乗るという予定。マリーナって人生で発音したことないわ。しかもボボボートて。おっちゃんが舟券を握りしめ、レーサーに汚いヤジを飛ばし、血走った目でレースを見つめる水上の戦い、あの蛭子さん御用達の賭けるボートではなくて? 乗るほう? ボートレース平和島の豚モツ煮込みが美味しいとか聞いておりますけど。そういう情報はいらない? 住んでいる世界の違いに打ちのめされた。

 

当日、男性が外車(聞いたけど忘れた)で迎えに来て、いざマリーナへ。Tさんは曲のリストをいろいろ用意してきたが、男性が懐かしいものがいいというので懐メロセットをかけた。流れる曲の思い出で盛り上がっていたが、曲が広瀬香美の『ロマンスの神様』にさしかかった時、男性が「この歌詞ってルッキズムだよね?」といった。Tさんは呆気にとられ「え、まあ、そうかも‥‥えへへ」とお茶を濁したという。

 

歌詞はよく憶えてないが、コンパに行ったら、いい男がいてラッキーみたいな曲で、ルッキズムどうこうではないような。「待っていました 合格ライン 早くサングラス取って見せてよ」あたりが該当するのだろうか。入学試験の面接など、公正に選別されねばならない場で容姿による選別は間違いだが、恋人を容姿で選ぶというのはごく自然のこと。誰にだって好みはあるだろう。それをルッキズムというなら、たしかにルッキズムかもしれない。広瀬香美もビビるだろうな。三曲目に『ロマンスの神様』が掛かり、彼が「ルッキズム」といってから、ずっと重苦しい雰囲気だったという。三曲目って、朝からずっと雰囲気が悪かったのでは。そんなデートは嫌すぎる。

 

結局、Tさんはボートを降りたあと「この近くに実家があるから、今日は実家に寄っていく」と、その日は現地解散で帰ったという。当然、Tさんの実家はそんな場所にはない。「もしこれからあの人と付き合ったとして、あの人は自分の正しさ以外認めない気がする。自分の『正しさ』だけが基準で、その正しさを検証しようともしないし、その言葉で相手がどういう気持ちになるか想像できない。『ルッキズム』といわれたこともげんなりしたけど、自分があの人の機嫌を損ねたくなくて曖昧な態度をとったこと、それも許せなかったんです。こんなことでぐだぐだ悩むなんて、私って面倒くさいですか?」と一気に畳みかけられた。

 

「男もだけど、Tさんも相当面倒くさいから、面倒くさい同士でいいんじゃないの?」といったところ胸倉をつかまれた。いや、自分で「面倒くさい」っていっておいて、肯定したら怒るのやめてほしい。そういう罠の張り方おそろしい。

 

思い返してみると、面白かったもの、楽しかったもの、好きなもの、現代の基準でみると昔のものは多かれ少なかれ差別的で問題を含んでいるように思える。基準は変わり続けるし、今日放送されているものも未来では「差別的」「ハラスメント」と批難される危険を秘めている。そういうものなんだろうと思う。だが、それらを個人でひっそり楽しむぐらいはいいんじゃないのか。そこまで厳密に正しさを求めるのはあまりに息苦しい。「ああ、こういうのあったよね」それでいいような。そんな会話をできるのは同じ時代、時間を過ごしてきた特権で、歳の離れた人とは共有できない。そういう楽しさもある。正しいことをいえる誰かより、くだらないことをいえる誰かのほうが大事に思える。正しいものはたいてい退屈だし、天国より地獄の方が楽しそう。