玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

このブログの内容はすべてフィクションです

渡辺篤史の建もの探訪

▼日曜の朝は、たまに『渡辺篤史の建もの探訪』を観る。渡辺篤史さんの落ち着いた声は心地よさがあり、のんびりした日曜の朝に合う。タイトルの「建物」は「建もの」とひらがなにしてあるんですね。なにか理由があるのだろうな。番組スタッフのどうしようもないこだわりがあるのだろうな。面倒だから検索しないけど。

 

渡辺篤史さんがいろいろなお宅を紹介する番組。家主は素人だから、気持ちよく家を紹介してもらうために褒めるのはわかるが、どんなお宅でも褒め倒す渡辺篤史がすごい。ゾンビが出てきそうな廃屋でも褒めてくれる感じがある。この番組に出てくるお宅はどれもすてきだけど、なんだか自分と遠いところにあるような気がして住みたいとは思わない。テレビカメラが入るからか、みなものすごくきれいに掃除してあってチラシひとつ出ていない。水道修理のマグネットを冷蔵庫にベタベタ貼るような家などない。モデルルームのよう。ホテル暮らしに憧れる人にはいいかもしれないが、人が暮らしている、生きているという実感に乏しい。ひらたくいえば、つまらないのだ。

 

千利休が弟子に庭掃除を命じたときのこと。弟子は庭を掃き清め、塵一つなく掃除した。掃き清められた庭をみた利休は、せっかくきれいになった庭に落ち葉を数枚散らし「これで良くなった」という。この逸話の意味はよくわからない。完璧というのは実は完璧などではなく、面白味がない。あえて崩すことにより自然の情感が感じられてすばらしいものになるということなのだろうか。整ったものが真に美しいかというと、たしかにそれはよくわからない。AIによって完全に整った美しい顔を出力することができるが、はたしてそれが本当に美しいものなのか、わからないところがある。字もそうだが、あえて崩すところ、その崩し方に個性があらわれるし面白味がある。などというと、私がいかにも達筆のようだが、まあひどいものですよ。おまえは崩す前に読める字を書きなさいよという。

 

今回のお宅も広々として、完璧に掃除された美しい邸宅だった。紹介する家主もその家族も完璧に見えた。だからつまらないのだろうか。このつまらないという感情の正体はなんなのだろう。作られた完璧さの薄っぺらさを感じているのか。なぜなら完璧な家や家族など幻想でしかないのだから。生きていけば何かしらの問題は出てくるし、それは当たり前だ。完璧に見える家と家族に対する嫉妬なのか、そもそも家を紹介したいというのはただの自慢なわけで、家主の自慢したいという感情が透けて見えるのが嫌なのだろうか。それらがごちゃまぜになり、このモヤモヤ感が出てしまうのかな。

 

私に任せてくれれば、まずテーブルの上にはスーパーの特売チラシ、ピザの出前チラシがおかれ、冷蔵庫には料理サイトでみたレシピのメモが水道修理のマグネットでビシバシとめられ、仕上げにゾンビが部屋の中央に置かれるだろう。まるで実家に帰ったような安心感がありますね。家主から、おまえ、二度と来るんじゃないぞといわれそう。

 

 

 

WBC予選が始まったので熱心に観ている。しばらくぶりの野球、楽し。

 

アメリカ国籍で、アメリカ人の父と日本人の母をもつヌートバー選手が日本代表として参加した。センターでの卓越した守備力と、予選全試合でタイムリーを打つ勝負強さ、常に先の塁を狙う走塁の隙のなさ、明るい性格など、人気が出るのもうなずける。ヌートバーが持ち込んだ、ヒットを打った時に胡椒を挽く仕草をするセレブレーション「ペッパーミル」もチームに定着した。言葉が通じないチームにもなじんでいる。

 

日本代表もヌートバーを迎えるのに、彼の名前をプリントしたTシャツを全員で身につけたり、ペッパーミルを取り入れたり、なじみやすいよう工夫をしている。今の若い選手たちは柔軟で優しい。デッドボールを当ててしまった佐々木投手がチェコの選手に帽子をとって謝罪した。一塁を守っていた山川選手も、その選手が歩いてくるときに帽子をとって謝罪していた。こういった優しさ、礼儀正しさは昔の野球選手には少なかったように思うし、表に出すこともなかった。

 

以前はたまに乱闘があった。ぶつけたピッチャーも「あれぐらいよけれんのか?」という態度でバッターを睨みつけることもあった。そう考えると今は洗練されてきた。いいことだと思う。昔の人間が野蛮で、今の人間がすばらしいといいたいわけではない。時代の価値観だったのだろう。人は水のようなものではないか。昔も今も人は本質的には同じで、器の形によって姿を変える。その器は、教育、躾、常識、法律などさまざまなものから作り上げられる。人はいい方にも悪い方にもいかようにも変わるのだから、器の形を整えなければならない。

 

仕事も下の世代と組むことが多くなってきた。私は、器がいびつだった頃の人間。今の若い人とは器の形が違うだろう。器は一度固まってしまうと、なかなか形を変えることは難しい。少しずつ器の形を変えて自分を順応させていくのか、はたまた人の器を破壊して自分の形に変えるのか。私は鉄拳制裁、乱闘上等の星野監督時代の野球を観てきた。やっぱり最後は暴力でカタをつけるしかないなあ!

 

 

 

▼一日たって、まだモヤモヤの正体がわからず家のことを考えている。最初は単に金持ちへの嫉妬かと思ったが、公と私の話なのかもしれない。外で過ごすということは誰かに見られていることであり、寝転がったり自由に過ごすことなどできない。無意識にどこか気を張っている。その公の自分が家に帰ると私の自分になる。家は本来、安らかに過ごす場所。家が不自然なまでにきれいに整えられると、汚すわけにもいかない。自分の振る舞いも私ではなく公を演じざるを得ない。それはリラックスとは対極にある。だからあそこに映る家はモデルルームのようで、まったく魅力を感じないのだろうか。

 

もちろんテレビカメラが入るから、家主も散らかった家を見せるわけにはいかない。誰だって掃除をしてしまう。本当はどの家も、もっと住みやすい家なのだろう。家の魅力は緩んでだらしない部分であり、それこそがもっとも重要なことなのではないか。でも、そんなだらしないところはテレビカメラには映らないだろう。