玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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正月のやつにわからせる

▼正月らしさとはなんだろう。正月らしさとは結局、自分の行動からくるのではないか。鏡餅を飾る、年賀状づくり、おせちづくり、大掃除、年末特番、集う親戚、店の雰囲気、そういったものがあわさって正月らしさを形成するのではないか。では、こういった行動を一切排すれば、私の中に正月は訪れないと仮説を立てた。

 

鏡餅を飾らず、年賀状も作らず、おせちも作らず、大掃除もしない、テレビは観ない、親戚はコロナで集わない、店に行かない、今年の年末年始はあらゆる正月らしさを排した。いっぺん、正月のやつにわからせないと駄目だと思った。なにせあいつは調子に乗っている。みんなが新年だなんだとチヤホヤするから浮かれているが、おまえなんてただの1/365日だ。どうだ、わかったかという。いよいよ、私も頭がおかしくなってきた気がする。

 

普通の日のように過ごしたところ、思った以上に正月らしさから遠のいた。何も感じない。元旦はただの1/365日になってしまった。それはそれで、さびしいものだなと思う。物足りない‥‥一年に一度、浮かれたっていいじゃないの。社会人がまとまって休めるのなんてゴールデンウィーク、夏休み、正月ぐらいなのだ。ここで浮かれなくて、いつ浮かれるのだ。今からでも遅くはない。正月を取り戻せ、とばかりに正月っぽいことをやりだした。情緒不安定なのでは。

 

頂いた黒豆を煮ました。かなり面倒くさいのではと敬遠していたが、正月を取り戻すというパワーで煮ることができた。圧力なべで煮ると簡単なのだな。自分で作ると甘さ控えめに作れるのがいいですね。おいし。ついでにリンゴジャムも作る。ほほほ。煮豚も作れば雑煮も作って箱根駅伝も観る。天ぷらソバとニシンソバも食べる。我が家にも正月がやってきたぞお。なんだ、私は正月がやりたかったのか。正月をわからせるなどといったが、結局、正月にわからされてしまった。正月なしでは過ごせない体になっている。

 

 

 

▼明石家さんまが若いお笑い芸人たちとテレビに出ていた。もう、さんまさんも67歳なのだな。娘のIMARUさんと、霜降り明星のせいやさんが一緒に遊び回っているのが気に入らないという話で盛り上がっていた。二人で映画を観に行くこともあるという話になり、その映画が恋愛映画ではなく、MARVELのヒーロー物である『ヴェノム』だと知ると、間髪を入れず「ヴェノムなら許す!」といったので驚いた。

 

 

『ヴェノム』まで観ている守備範囲の広さよ。67で、これに興味を持つのはなかなかだと思う。はたして私がさんまさんと同じ年になったとき『ヴェノム』に興味を持ち続けているかというと、ちょっと難しいように思う。「もうこういうのいいや」とならず、観続けられるパワーというのはなんなのだろう。新しい何かを探すのが面倒になって、知っている懐かしいもので満足してしまう。新しいものを取り入れようという気がなくなるのだ。新しいものを取り入れる、好奇心を持ち続けるにはということを考えている。

 

昨日はドリフで生き残った二人(加藤茶、高木ブー)と、ドリフの見習いメンバーだったすわ親治さんがコントをやっていた。くわまんもトランペットを披露していた。さすがに田代まさしは出られないのか。高木ブーさんは89歳だし、加トちゃんも79歳である。面白い、面白くないというより「あ、まだ動いている」という見方をしてしまうな。加トちゃんがボケて勝治涼に頭を叩かれていた時は「そんなに叩いて大丈夫か」と心配になった。首が逝くのではないかと恐ろしかった。

 

老いた姿をみせるのは一昔前は、老醜を晒すなどといって嫌がられた。最近はわりとこだわらずに出ている人もいる。私は、出るな派でも、出ろ派でもなくて、本人が好きにすればいいとしか思っていない。かつて楽しませてくれた人たちに感謝しかない。加トちゃんは、いっときよりも声が出ていて安心した。やっぱりちょっと感傷的な気分になってしまうな。こういうときは、たくさん人が死ぬバカバカしい映画が観たくなる。今年の抱負は、親切と思いやり。あと、人の悪口を積極的にいっていく。