玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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昭和は遠くなりにけり

▼里芋を段ボールで一箱頂いた。ありがたや。里芋尽くしの日々が始まった。わたしの里芋料理のレシピといえば里芋の煮っころがし、里芋の味噌汁のみ。二日でレシピが尽きた。しかし、どうしたものかねえ。里芋を大量に消費するレシピを探している。

 

里芋というのは美味しいが、ずいぶんと剥くのに手間がかかる。手がぬるぬるになってしまう。もう少し下ごしらえが楽ならばいうことはないのだが。「里芋 大量消費」でいろんなレシピが出てくるものの、結局、煮っころがしが一番うまいように思うのだ。筑前煮でも作ってみるか。何かまったく新しい新機軸を求めている。

 

 

 

▼年々、新しい言葉が出てくる。新しくても気にならない言葉と、どうも鼻につく言葉がある。エビデンス、価値観をアップデート、深掘りなど、今日はいっぺんに全部使われてしまった。なぜこんなに嫌悪感をもってしまうのか自分でもよくわからない。言葉は常に新陳代謝を繰り返す。古い言葉に別の意味が加わったり、忘れ去られたり、まったく新しい言葉が登場したりする。それは当たり前のこととわかっているが、それでも受け入れにくい言葉がある。

 

言葉そのものではなく、結局その言葉をつかう人なのだろうか。新しい言葉を使う人には「新しい言葉をつかいこなしちゃう自分」という虚栄心がのぞくときがある。その得意げな様子を無意識に感じ取って「なにか嫌だな」と反応するのかな。何が嫌かって、仮にそういった虚栄心が存在したとして、そのわずかな虚栄心すら許せずにいちいち指摘したくなる自分の小ささなのだ。

 

目前でそういった言葉をつかわれたわたしは、思わず「あーうー‥‥」といって二の句がつげなかった。わたしの心の中にいる大平正芳 第68、69代内閣総理大臣がうめき声をあげた瞬間だった。大平正芳の口癖が「あーうー」というのが、ブログを読んでいる人に伝わるだろうか。対象年齢55歳以上のブログ。もはや誰に向けて書いているのかわからない。

 

打ち合わせの中で、20代の男性が「昭和時代の人は」といったのもちょっとショックだった。昭和に時代をつけるんじゃないよ。だがよく考えてみると、わたしはずいぶん前から平気で明治時代、大正時代という言葉を使っている。そこに違和感をおぼえたこともない。あれも明治生まれの人たちにしてみれば面白くなかったかもしれない。「明治に時代をつけるんじゃねぇよ、小僧」そう思っていたかも。

 

わたしも今後は平成生まれの人たちに、ウソ昭和知識を吹き込んでいきたい。とりあえずは映画は全部白黒で活弁士がセリフをあてていたとか、音楽を聴くときは蓄音機にレコードをかけて手回ししていたとか、人力車がそこら中を走り回ってたとか、そこらへんから信じさせたい。昭和は長いから、必ずしも嘘とはいえないのがすごいな。自分ではまだ若造だと思っていたが、20代の彼らから見れば昭和時代の人なのだ。ふーむ、昭和時代ねえ。ナメ猫ステッカー、貼ったろか。

 

 

 

▼映画の感想『13人の命』を書きました。2018年、雨季のタイで少年サッカーチームが洞窟にとじこめられる事件が起きました。事件と救助活動の様子を描いた映画。面白かったです。