玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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ドライブ・マイ・カー

▼自室のシーリングライトがチカチカと点滅していた。蛍光灯が寿命なのか、本体が寿命なのかはわからない。蛍光灯だけでも二つで四千円ぐらいするので、それだったらこれを機にLEDにしたほうが安いのかなと買い替えを考える。通販サイトで十二畳用のシーリングライト(七千円)を購入した。

 

付け替えようと思ったのだが、さっきまでチカチカ点滅していたやつが新しいシーリングライトが届くと「自分まだまだいけます!」と、がんばりだした。あれほどチカチカしてたのに。うーん、おまえというやつは‥‥。持ち主に似ているので憎めない。

 

購入した商品は東京ゼロエミポイント(省エネ性能の高い商品へ買い替えるとポイントが付く)の対象商品で、都に申請すれば三千円の商品券をくれるらしい。よくわからずに買ってしまった。で、申請方法をみたら不正防止のためだろうけど面倒くさい。現在設置している照明器具の写真を撮り、LED商品を付け替えた後の写真を撮り、レシート、納品書、保証書、写真付き身分証などを揃えて申し込む。どういうわけか都のアドレスはgoogleから迷惑メール扱いされているのか、gmailが届かないのでgmail以外のアドレスを使ってくれと書いてあって、もうめんどくさ! となった。

 

申し込みが済めば、まだ都が予算を使い切ってないならLED割引商品券がもらえる。これ、普通の商品券やポイントじゃダメなのかな。今回、ネット通販で照明を買ったのだけどAmazonやヨドバシで使えないLED割引商品券をもらってもなという。今度、居間の照明を買い替える場合、実際の店舗に行ってLED商品券で払って、大きな照明を抱えて帰ることになる。送ってもらえば送料二千円ぐらいかかるから、行った意味がなくなるという。なぜこの仕組みにしましたか。行政のポイントって今一つのものが多くて、結局ほったらかしにしてしまうな。今回もほったらかすのではないか。

 

 

 

▼村上春樹原作の映画『ドライブ・マイ・カー』の感想を書きました。村上作品について書くと村上春樹ファンの方や、逆に村上春樹が嫌いな方から、ごくまれに長文のメールをもらうことがある。わたしは村上春樹をあまり褒めてもおらず、かといって痛烈にけなすというわけでもなく「結局あなたは村上春樹が好きなんですか」という、どちらからも問いただされる感じ。

 

たとえば自分の親について好きかと訊かれれば、どう答えたらいいか躊躇ってしまう。好きかどうかはさておき、いいところと悪いところをたくさん知っているというのが本当の気持ちだ。たとえ好きだとしても、なんだか照れ臭くて、好きだと答える気にならない。「どうやらまだ死んでないみたいですよ」とか、そんなふうに答えるのではないか。近いということは遠いということより難しい。国同士の関係でもそうですが。村上春樹は親とはまったく関係ないものの、人の心に語りかける普遍的なものをとりあげることが多く、どうしても存在が近くなりがちなのだ。好き嫌いというより「近い」という印象。

 

『ドライブ・マイ・カー』のレビューをみると批判的なものも数多くある。わからないことが批判的になる理由なのだろうか。わからないということは今後わかるようになることもある。元上司からは「わかったあとはわかる前に戻れない。その状態を楽しめ」といわれた。わかることは不可逆だ。わかるとわからないでは、わかるが優位と思うかもしれない。だが、わからないから人は考える。わかるために自分の中でさまざまな仮説が構築される。ときにその仮説が真実より価値を持つこともある。考えているうちに気づくことも多い。一方、わかるという状態は安定している。一度わかってしまえば、それについて考えることはあまりない。わからないから発見がある。だから、わからないものに触れることは可能性があるように思うのだ。わからないことについて拒絶するのではなく、もう少し肯定的にとらえてもよいように思うのだけど。考え続ければいつかわかる日がくるかもしれない。こなくても、たいしたことではない。

 

ドライブ・マイ・カー』は村上春樹らしく、まったくよくわからない話だった。だから他の映画よりも観る価値があるように思える。