玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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釈迦の掌でわりと長いこと踊ってた

▼オーストラリアのドラマ『ウェントワース女子刑務所』を観ている。ヨーロッパの刑務所が、刑務所らしくなくて自由というのはテレビで観たことがあった。オーストラリアもなかなか自由。囚人たちが集まっておしゃべりしたり、音楽かけてダンスをしたり、お菓子食べたり、雑誌や本も好きに読んでいる。個室の扉ののぞき窓に布を貼って、中をのぞけないようにしている。いいんかい、と思いますけど。囚人の自由、尊重されすぎでは。

 

気性の荒いおばちゃんたちしか出ないドラマ。日常生活でおばちゃんに会うと、この人はどのタイプの囚人だろうと無意識に分類して恐れおののいている。

 

 

 

▼日記を書かないうちに日が経った。代わりに小説を書いていた。書きたい欲というのが小説側で発散されてしまった。

 

あるゲーム内で公募企画があって、そのゲームを題材にした小説、いわゆる二次創作の募集があって書いてみた。キャラや時代背景などが決まっているせいで設定を考える必要がない。すらすらと書けてしまう。思ったよりも反応もよく、千人ぐらいの人に読んでもらえた。たくさん褒められた。で、調子に乗ってそこから5つも書いてしまったという。

 

少しだけミステリー調のものを書いたけど、そこでわかったことがあった。今まで森博嗣のミステリーを読んだときに不思議だったのが「なぜ、わたしがトリックを見破れるのだろう」ということだった。ほとんど全部、トリックはわかった。森博嗣ほど抜群に頭のよい人が考えたトリックが、わたしに見破れるわけがない。つまり、わかるように書いてある。ミステリーを読むとき、当然読者は作家のトリックを見破るつもりで読む。作家の側も見破られないように書く、そう信じ込んでいた。

 

でも、本当の狙いは、読者に自分の力で謎を解いたと思わせることではないか。あまりに難解だったり、複雑だったり、専門的な知識を用いた謎は、トリックを明かされても「なんだよ、それ」と興醒めする。逆に簡単すぎると「単純」「幼稚」などと評価される。だから、ギリギリ解けるか解けないか程度がいい。そのために巧みにヒントを出して、読者に「自分の頭の良さで解いた」という誤解を与えるのが、もっとも読者にとって気持ちのいい作品なのだと思う。

 

わかってしまったな。わかってしまって嫌だな、と思うことがある。これは、あのー、映画でも同じでしょ? 今まで映画の感想で調子にのって「トリックは単純で、なんちゃらかんちゃら」などと偉そうに書いていたが、解けるように作ってあっただけなのだ。それをさも「あたくし、わかっちゃいました!」と浮かれて書いているわけで、釈迦の掌で調子に乗るサルそのもの。恥ずかしい。直そうにも、映画の感想は1300本もあるわけで、到底読み返す気になどなれない。恥の記録である。

 

全削除しかない。

 

 

 

▼映画の感想『海底47m 古代マヤの死の迷宮』を書きました。鮫ホラーです。とても丁寧に作ってある印象。鮫を映さねばならないけど、あんまりはっきり映れば怖さが減るし、かといってあまりに映らなければ欲求不満になる。鮫ちゃんの露出具合がちょうどいいです。スタローンの娘と、ジェイミー・フォックスの娘も出ている二世映画。