玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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「じゃ」の使い手

▼以前、伯母からモスグリーンの手編みのマフラーをもらった。網目の間隔が大きく、外でするにはちょっと寒い。手編みだから仕方ないが、デザインもそれほどいいわけではない。伯母が家に来る日、家でそのマフラーをつけていた。久しぶりに会った伯母は、私を見るなり言った。「あんた、それ食器あらうやつ」。

 

マフラーじゃないんかい。どおりでチクチクすると思った。スポンジなら、もうちょっと短めに作ればいいと思う。

 

 

 

▼歌うアイスクリーム屋「コールドストーン」が二店舗まで減少したというニュースを読む。コロナ禍では歌うこともできず、大変なのだろう。

 

コロナ前に何度か行ったことがある。店員さんが楽しそうに歌いながらアイスクリームをこねる店。ああいうのはアメリカ人がやるのは似合うが、日本人がやるのはなんだか照れ臭いという偏見じみたものがある。最初に行ったとき「歌っていいですか?」と訊かれ「いや、いいです」と答えたところ、ひどく悲しそうな顔をされてしまった。悪いことをした。だが、歌ってもらっている間、手持無沙汰でどんな顔をしていいかわからなかったのだ。次こそは歌ってもらおうと決意した。

 

二度目に行ったとき、歌っていいか訊かれ、「歌いたいなら」と答えたら「え?」と訊き返されてしまった。コミュニケーションが絶望的に下手で震える。悪気はなかったのに。結局、歌ってもらった気がする。来世はコールドストーンで自然に歌ってもらえる客になりたい。カウンターの向こう側で、歌いながらアイスクリームをこねる人間になりたい。今世はもうあきらめた。

 

 

 

▼漫画でもドラマでも、どの媒体でもいいんだけど「~じゃよ」とか「~じゃ」としゃべるお年寄りが出てくることがある。でも、現実にそういう人に会ったことはない。若者はそういうしゃべり方をしていないから、歳をとっても「じゃ」を使わないのでは。長く生きていると、ふとした折に「そろそろ自分も『じゃ』を使う歳かな」と思うのだろうか。いつか私も使いだすのかな。周りで「じゃ」や「じゃよ」を使っているお年寄りなど見たことがない。みんなわりと普通にしゃべっている。「じゃ」を使うお年寄りなど本当は存在しないのでは。日本昔話の中にしかいないのでは。わしは疑っておるのじゃ。練習していく。

 

 

 

ウクライナのゼレンスキー大統領が日本の国会でリモート演説した。ロシアに比べてウクライナはネットをうまく使う印象がある。ロシアは情報戦で大きく後れをとっている。

 

国にかかわらず、歴史ものを読むと、優れた独裁者が出現すると国が急速に発展したり、強くなることがある。だから国や企業は独裁制がいいのかと思っていた。もっともそれは短期の話で、長期にわたると弊害が出てくる。後を継いだ二代目、三代目の出来が悪く、簡単に国がひっくり返ることがある。企業ならばつぶれるだけだが、国になると甚大な被害が出る。

 

それでもどこかで一代だけならば、優れた独裁者が統治したほうがいいのかなと思うところもあった。でも今回のロシアを見ると、それでは駄目なのだなと思わされる。優れた人間が常に優れた状態で居続けることは難しい。老いたり、健康状態が悪くなれば判断力が低下する。認知症になるかもしれない。「ここら辺で身を引こう」という判断ができるぐらいなら、まだ交代しなくてもいいが、そういう判断すらできない状態になることだってある。

 

そのときにトップを交代させる健全な仕組み、公正な選挙に基づく議員内閣制のようなものがしっかり機能していないと大変なことになる。トップへの権力集中も、避けた方がいいのだろう。たとえ意思決定が遅くなったり、派閥の力関係に左右されたりしても、そのマイナスは安全装置として必要かもしれない。もうロシアは今後30年ぐらいは、どの国からも信用されないのではないか。失墜した国の信用をどう取り戻していくのだろう。

 

 

 

▼映画の感想『博士と狂人』を書きました。今年観たなかでもっとも面白かった作品。メル・ギブソンショーン・ペンの共演。オックスフォード大英和辞典の編纂をした実在する人物を基にした物語です。メル・ギブソンの罪はいつか許されるのか。