玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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あすけんの女に褒められたい

▼「あすけん」というダイエットサイトを使っている。アプリもある。

 

 

2007年からあるんですね。周りでは使っている人が多くて、私もやり出した。コロナで外出が減り、体重が増えた。私の身長(170㎝)だと63㎏が適正体重だけど、いつの間にか70㎏ぐらいになってしまった。小デブではないか。63㎏を目指したい。

 

摂取カロリー、運動による消費カロリーの計算が楽でいいですね。何を食べたか記録するのが楽しいし、献立の記録にもなる。なにより「あすけんの女」が褒めてくれるのが嬉しい。

 

 

私のことを心配してくれるのは、あすけんの女だけである。褒められたくて運動をしてしまう。食事は自己申告だが、メニューを書き込むとき「鶏チャーシュー 470キロカロリー」とあり、これを選択したらカロリーオーバーになった。メニューは細かくて同じ鶏チャーシューでも切り落としはカロリーが低く180キロカロリーだった。そちらに直すと、適正カロリーになった。あすけんの女に褒められたいばかりに、三日目にして記録捏造をする。

 

あすけんは、他のサイト利用者の記録や日記もみることができる。あすけんの女に叱ってほしくて、わざとドカ食いをしている猛者がいた。なんのためにアプリを使っているのかわからない。

 

 

 

▼小説家の西村京太郎さんが91歳で亡くなった。「戦争は正しくても悪くてもダメ」という言葉が印象的だった。当事者にしてみれば、それなりに大義や理由があり正しい戦争なのだろう。それでもダメはダメ。本当にそう思います。ロシアで反戦活動をした小学生やお年寄りが逮捕されているニュースを見た。このようなことは亡国の兆しとしか思えない。ウクライナを制圧したとして、遅かれ早かれプーチンも終わるのだろう。

 

 

 

▼ゴリラ部長の娘が反抗期に突入。ささいなことで家族と火花を散らしているらしい。わくわく。何でケンカしたのか訊くと「YouTubeで見るから本は必要ないし、もういっさい本を読まない」とのこと。そういうことでケンカするのだなあ。親にしてみれば、なんとか本を読ませたいのかもしれない。

 

本なんて読んだって読まなくたっていいように思う。でも、それは少しは読んでいるからそう思うわけで、まったく読まない人が「本を読む必要はない」というのと違うかもしれない。学校に行かない不登校YouTuberのゆたぼんという子がいたけれど、彼に「学校なんて行かなくていい」という大人たちは、だいたい高学歴だった。バリバリ学校に行っている人たちだった。関係ないたとえを挙げてしまった。

 

本もYouTubeも情報で、情報を活字から得るか、動画から得るかの違いかもしれない。ただ、活字は自分から読まなければならず、読むことにはある程度の忍耐がいる。我慢して読んだもののほうが忘れにくく、血肉になる気はする。じゃあ、同じYouTubeを10回観れば? といわれれば、それで同じ効果があるかもしれないけど。

 

単純に本は面白い。それだけで読む価値がある。まだ面白い本に出会ってないのかもしれない。なぜ本とYouTubeの二項対立になるのかがわからない。本も読んでYouTubeも観たらいい。「本は読んだって読まなくたっていい」というのはどの分野にもいえるのだろう。「学校は行ったって行かなくたっていい」「映画は観たって観なくたっていい」とか。でも「〇〇しなくてもいい」といい切るためには「自分は〇〇してきた結果、〇〇しなくてもいい」という結論にたどり着いたわけで、人から「〇〇しなくてもいい」という結論だけ聞いて従うのは違うと思う。

 

結論にたどり着くまでの無駄というか、一見無駄と思える中に重要なことがあって、それは自分で掬い上げなければならない。無駄かどうかを現在の自分が判断できないことだってある。だから「本なんて読む必要はない」と本気で思うのであれば、やはり本は読んだ方がよいのではないか。そこには自分の知らない何かが潜んでいる可能性がある。「読んだって読まなくたっていい」と思う人は、読まなくていいのかもしれない。

 

明治の文豪 内田百閒は「(本は)他人のおしゃべりを目で聞いているようでうるさい」と書いてたっけ。そんな百閒は小説家だけど。