玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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今昔

▼SNSで「柔らかくて丸いのが偶数、硬くて尖っているのが奇数」という書き込みを見た。なんとなくわかる。黄色は偶数で、青は奇数というイメージがある。でも、7だけは赤い気がする。

 

 

 

▼本をAmazonで注文しようとしたら8000円もするので悩む。高いなオイ。需要が少ない本はちょっとびっくりするほど高いことがある。こういう本ほど電子書籍にしてほしいのだけど。図書館にあったので予約することにした。図書館をぶらぶらすると目的外の本が目に入ることもある。

 

佐藤多佳子さんの本を見かけて手に取った。以前、とらうとさんという方に『神様がくれた指』(佐藤多佳子)を薦めてもらい、面白く読んだ。『しゃべれども しゃべれども』『黄色い目の魚』などもよかった。それから著作を見かけるたびに読んでいる。面白いのに寡作の印象。

 

 

 

▼YouTubeなどで過去の曲を賞賛して「昔の歌手に比べて、今の歌手は歌が下手」というコメントを見かけることがある。自分が好きなものを肯定するのはよいとして、他人が好きなものを否定するところまでいってしまう。なにか不思議な気がする。自分は過去に曲を聴いていただけなのに、まるでその曲を作ったり、歌っていたかのような偉そうなことを書いてしまう。いつから人は新しいものを受け入れられなくなるのだろう。

 

今、発売された曲は若い人だけのもので、その曲はもう私にとっての特別な曲にはなり得ないのだろうか。10代がもっとも熱心に曲を聴いていた時代で、20代以降は音楽に対する興味も冷めていった。かつてのように全力で何かを丸ごと好きになることもなくなった。曲を聴いても、本を読んでも、映画を観ても「あの部分が好き」というように、全部ではなく部分を好むようになった。全部を肯定できなくなった。おそらく、10代で好みの「型」が形成されるのだろう。

 

 

自分の中に強固な型ができて、その型から外れるものを受け入れることができなくなっていく。歳を重ねれば重ねるほどその型は頑強になっていく。音楽だけならばいいのだが、本や映画などの趣味にとどまらず、仕事のやり方、思想、価値観といった考え方すべてに影響を及ぼしていく。

 

型は本人が思い込んでいるほど正しいわけでもない。新しいものを取り入れることで型自体が柔軟に形を変えていく。新しいものを認めないということは、型の変化を拒絶することで、自分が拒絶していることにも気づかない。型が変化すれば理解できるものも増えていく。だから「わかる、わからない」「好き、嫌い」を超えて、なんでも取り込まねばならないのだろう。谷村新司さんが「流行っているものには何か良さがあるはずだから、とりあえず一度試してみる」とおっしゃっていたが、それが大事に思える。

 

新しいものでも、とんでもなく古いものでも、ネットで探して触れられる時代になった。古いも新しいも昔も今もない。時間が超越されたといってもよい。『鬼滅の刃』を楽しんだあとで黒澤の『椿三十郎』を観てもよい。もうどうやっても、何を好きになっても、いいはずなのだ。なのに「昔にくらべて今は」などと言っている人を見ると、余生を生きているようでさびしい。自分の全盛期は10代や20代で終わって、あとは余生だ。そういう余生を生きている人はたくさんいる。余生など幻想でありはしないのに。今が一番楽しいとなるために、未知のものをなんでも取り込んでいく必要があるのかもしれない。

 

 

 

▼映画の感想『魔境 殺生谷の秘密』を書きました。三船敏郎が出ています。上で偉そうなことを言いながら、黒澤作品にくらべてなどとずいぶんと批判してしまった。よくない。私は余生を生きている。