玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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野球が好きだった人たち

▼頼んでもないのに来るんだよ、冬は。寒し。布団のなかでうだうだしていたい季節になった。

 

「俺たちの仕事に創造性なんていらねぇんだよ! アンパンマンの顔を作るみたいに何も考えないでおんなじ物作ってりゃいいんだよ!」と、えらい剣幕で怒られる夢。ときどきとんでもない夢を見ますな。どこか病んでいるのでは。

 

 

 

▼チョコレートムース(レシピ)を作る。材料にミルクチョコレートを使ったが甘すぎた。これはブラックチョコレートで作るものなのだな。メレンゲを作るためにハンドミキサーを購入。ボールに卵白を入れてハンドミキサーをかける。ビーター(ハンドミキサーの先端の金具)がボールの底に当たると、ガガッと音がする。ボウルの底が傷つきそうで怖い。なんでもやってみてわかる。恐る恐るハンドミキサーを使えば、白い角が立ち上がるようなきれいなメレンゲができた。ほほほ。

 

ビーターって格好いいな。積極的に人前で使っていきたい。「今日はビーターの調子が良い」など、通ぶっていきたい。

 

 

子供の頃、中年男性が趣味で料理をやっている番組を観た。その人は休日、凝った料理を作り、一人で食べていた。はたしてこの人は本当に心から楽しめているのだろうかと思った。家族のためでもない、友人に振る舞うでもない料理は、どれだけ豪華で美味しくてもなんだか虚しい。その姿はさびしく映った。思えば、私も今まったく同じようになっている。なるねえ、人は。「こういうふうになりたくない」と思ったものに。しかし、なってみてわかるが実は楽しいもの。人の気持ちを勝手に推し量り、憐れんで、傲慢だった。

 

チョコレートムースの出来は悪くなかったが、食べてみて思うのは「自分はまったくチョコレートムースが好きではない」ということ。作ってみて初めてわかることがある。

 

 

 

▼駅で乗り換え案内のボードを見上げていると、下の名前を呼ばれた。横を見ると40歳ぐらいの女性が立っていた。どこかで見たのは間違いないけれど思い出せない。「ちょっと、忘れるなんてひどくない?」と軽く腕を叩かれた。彼女の名前を聞いて記憶がよみがえった。20年以上前に友達の紹介で付き合って、一か月も経たないうちにフラれたDさんという女性だった。たしかにDさんのようだが、目の前の女性と過去のDさんがうまく繋がらない。こんな顔だったような気もするし、そうでもないようだし、実に心許ない。思わぬ邂逅で盛り上がり、近くの喫茶店に入った。

 

彼女は40半ばで、子供がもう二人いる。20年というのはそういう時間なのだ。私だけが止まっており、周りはどんどん先に行ってしまうような心細さがある。Dさんの長男は少年野球をやっているという。「Dさんも野球好きだったよね」と言うと、彼女は「そのことで謝りたいことがある」と奇妙なことを言い出した。

 

彼女の家は野球一家で、お父さんはかつて社会人野球の選手、お兄さんは大学の野球部、Dさんは高校時代には野球部のマネージャーをやっていた。Dさんが野球好きということで、私は野球の本を20冊ほど買い込み、江夏の21球だとか、長嶋が敬遠のボールを打つ練習をしていたとか、野球ファンが好きそうな話を仕込み、デートのときにしていた。野球の雑談で盛り上がっていたかと思いきや、唐突に「価値観の違い」からフラれることになる。これはあれか、私がセリーグの話ばかりしていたからなのか、パリーグについて話せば良かったのかと悩んだ。

 

Dさんからあらためて話を聞いて驚いたが、実は彼女は野球のことがまったくわからないという。私の言うことも「ずっとお経を聴いてる気分だった」と言う。お父さんが社会人野球の選手だったのは本当だし、お兄さんが大学の野球部だったのも本当。「高校時代、野球部のマネージャーだったっていうのは?」「本当だけど1週間で辞めた。ルールよくわかんないし、野球も好きじゃないから」「え?」「野球好きじゃないし‥‥それに、デートのときいつも野球の話してたよね?」「うん」「あれが苦痛だった」「苦痛て。野球好きって言うから」「それは、野球好きってことで売り込んでたから言えなかったんだよね。女が野球やるのをソフトボール、男がやるのを野球だと思ってたぐらいだから」「斬新な解釈。別競技だけどね」「そうそう。子供が野球始めるまで知らなかったよ」「常識としてまずいだろうよ」。

 

私もそこまで野球が好きじゃない。江夏や長嶋は現役時代も知らないわけで、歴史上の人物と変わらない。正直なことをいえば、野球の話を毎回仕入れていくのもしんどかった。私たちはお互いにさして好きでもない野球の話をし、盛り上がっている感じを出し、お互いに疲弊していたのか。言ってくれればいいのに、と言うと「なんか楽しそうに野球の話しているなあって。昔の選手も詳しいし、この人、本当に野球好きなんだなあって」と微笑んだ。そこまで好きじゃないですけど。20年経ってフラれた理由を知るとは。Dさんの姿を見送り、駅のホームで電車を待っていた。ホームから見える大きな木から鳥たちが鳴く声がする。ざわざわという響きはしだいに大きくなり、何十羽の群れとなって一斉に飛び立っていった。胸のつかえが下りる思いがした。

 

Dさんの息子は少年野球でエースで四番を打っているという。その話、嘘じゃないだろうな。なにせルールもわからぬ女。私は疑っている。

 

 

 

▼映画の感想『三度目の殺人』を書きました。是枝裕和監督作品。ちょっと不思議なサスペンス。はっきりしないオチなので賛否両論ありそうですが、私は面白かったです。