玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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豚は鳴き声以外捨てるところはない

▼寒い日にカブのクリームシチューを食べると幸せな気持ちになる。ほほほ。カブの甘味が美味しい。温かいものが嬉しい季節になってきた。

 

 

 

▼ドイツのことわざに「豚は鳴き声以外捨てるところはない」というものがある。豚は全部美味しく食べられるという、そのままの意味。ちょっと格好いいなと思って憶えたが、ことわざの使いどころがないまま何年も経ってしまった。どこかで使いたいが難しい。話の頭で使えばいいのだろうか。「さて、豚は鳴き声以外捨てるところはないと申しますが‥‥」だ。「申しますが」の後になんと続けたらよいものか。せめて私が料理屋か肉屋ならねえ、使う機会もあると思うけれど。村上春樹はさらりと使いこなしそう。

 

「灰田はそのとき、つくるが密かに抱いている妄想や欲望を観察し、そのひとつひとつを検分し腑分けした。そしてその上でなおかつ、友人として交際を続けているのだ。ただそのような穏やかではない様相を受容し、感情を整理し、落ち着けるために、隔離された期日が必要だった。だからこそ彼は十日間つくるとの交際を経ったのだ。豚は鳴き声以外捨てるところはない。もちろんただの憶測に過ぎない。根拠を欠いた、ほとんど理屈の通らない憶測だ」

 

実際に村上春樹の文にはめこんでみたが、すんなり入るような気もする。わかるようなわからないような感じがいいスパイスになっている。正しい使用法は、なんだかよくわからない感じで使うことでは。実際に隣席のTさんとの電話で使ってみた。

 

「3日もあれば大丈夫ですね」「それで問題ないでしょ。豚は鳴き声以外捨てるところはないし」。かなり勇気を振り絞って言った。Tさんは聞き返すわけでもなく、疑問の声をあげるでもなく「じゃあ、よろしくお願いします」と何事もなかったように電話を切った。無視された。いったいどういうことなのだろう。私の必殺の「豚は鳴き声以外捨てるところはない」だぞ。聞こえなかったはずはない。なぜ無視なのか。

 

聞き返すのもなんだか悔しいからなかったことにしたのか、それとも、よくわからないこと言ってるなコイツ、相手にするのやめとこ、だろうか。後者のような気がする。電話して「さっきの『豚は鳴き声以外~』のことだけど」と確かめたいが、それもまた変なので電話するわけにもいかない。どこにも持って行き場のないみょうな気持ち。豚の鳴き声と女心は猫の盆踊りのごとしというが、まさにである。

 

いよいよなんだかわからない日記になってきたな。「猫の盆踊り」という適当に書いた言葉も気に入ってしまった。猫の盆踊り、猫の盆踊り‥‥かわいい。新しいブログのタイトルにしたい。

 

 

 

村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだ。村上作品にしては珍しくストーリーがつかみやすく、ミステリー小説を読むようだった。学生時代の親友たちから説明もなく仲間外れにされ、心に傷を負った主人公。それから十何年が経過して、理由を知るためにかつての友人たちのもとを巡る。今の気分にぴたりときて面白かった。失われた友情の物語、みたいなのを求めていたのかな。

 

水曜日のダウンタウン』で漫才コンビ おぼんこぼんの和解を観た。70歳を超えたおじいさん二人のケンカと和解は、いったい何を見せられているんだという気分になるが不思議と感動的だった。歳をとればとるほどプライドも高くなって、なかなか自分から頭を下げることができなくなる。小学生にできていたことが大の大人にできない。でも、その難しさもわかる。

 

人の絆というのは、つまるところその人と過ごした時間の長さなのかな。何歳からでも友人はつくることができる。でも、その友人たちは私のいいところ、格好つけたところだけを知っている友人かもしれない。恥ずかしいところやみっともないところを知っているのは学生時代の友人で、もうそんな友人は二度と得られない。50年来の友人は、失えばもう二度と得ることはできない。観ている側も無意識にそれがわかっていて、だからあの和解はバカらしくも感動的だったのかもしれない。

 

来週あたり、またケンカしそうな気もするけど。