玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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海までの道

▼このまま寝ていると明日のご飯がないと思いながらうだうだする。しかし、今一つ買い物に行く気もしない。

 

そして日は暮れた。家に残っている食材をあさると、新興宗教にはまっている伯母がもってきてくれた青汁の粉が出てきた。ベーコンとエリンギがあったので青汁パスタを作る。普通の味に飽きていたので、たまにはこういうのも良い。やはり青汁は、新興宗教にはまった伯母がもってきたものに限る。

 

 

▼友人Nと話す。友人Nは漫画と音楽が好きで、学生時代からずいぶん趣味に時間とお金をかけてきた。漫画も段ボール単位で買って、読み終わったものは売るか、周囲に気前よくあげていた。私も何箱かもらったことがある。そんなNだが、今は漫画、音楽だけでなく、本や映画にもまったく興味がなくなってしまった。作品の影響を受けて感情に波風が立つのが邪魔くさいという。

 

わかるような気もするのだ。いくら感情が動いたとて、それで自分の生活に何か変化が起きるわけではない。お金が儲かるわけでもない。感情が上下し、またそれを平静に戻すのに時間がかかるというのもわかる。だからNは、休日は壁を見つめて1日過ごしているという。でも、その過ごし方はどうなんだ。

 

江戸時代の俳人 滝瓢水(たきひょうすい)の句で心に残ったものがある。

浜までは 海女も蓑着る 時雨かな

 

ネットをみるといろんな解釈がある。海まで行けばどうせ濡れるのに、それでも海女は蓑を着て雨を防ぐ。それは自分の体が神や仏からの借り物であり、大切にしなければならないという解釈。この世に自分の物など何一つなく、自分の体すら例外ではない。大切に使って、やがて天に返すというもの。

 

私はこの句は死までの在り方を詠んだように思えた。私たちは死ぬことが決まっている。海=死のイメージ。死は誰も避けることはできない。どうせ死ぬのだから、投げやりに生きてもいいかといえばそうはならない。それが蓑を着て雨を防ぐことにある。蓑を着て、海までの道をどう過ごすかは人それぞれである。ただ、できればその道のりが楽しいものであればと思う。

 

Nの言うように感情を大きく動かすことが面倒なのもわかるが、さりとて日がな一日壁を見つめて過ごすのも惜しい。余計なお世話だけど。人生はなかなかに残酷で、不意に人が亡くなったり、病気で苦しむこともある。会社が倒産することもあれば、人から騙されて裏切られることもある。ときには戦争、飢餓、災害もある。残酷で不条理な現実をひととき忘れさせ、盾となるのが、さまざまな芸術でありスポーツである。だがNにとってはもはやその盾が重い。そんな物は必要ないのだと言う。Nはそれを逃避だと捉えている。

 

逃避でまったくかまわないように思うのだけど。そもそも絶対的な人生の意味などない。このテレビはどういった仕組みで映るのかを一生考え続けるより、テレビに映し出されるものを楽しんだ方がいいのではないか。だが、Nはそれを許さない。考え続けるべきだと言う。そういうことは中学や高校ぐらいに考えて、あとはもう考えなかった。まだNがその純粋さを持ち続けていることに驚いたのと同時に、この人、自殺しないだろうなと心配になった。

 

Nのあとに友人Kと話す。Kはアダルト動画サイトの話をしていた。サイトのコメント欄ではしばしば女優の名前を訊ねる人がいる。Who is she? と訊く英語圏の人に、検索しやすいように漢字の名前とアルファベットでの名前、さらにAV女優はよく芸名を変えるので、以前の芸名も書いてあげる人がいるらしいのだ。

 

「助け合いってすばらしいよな。いやあ、世の中すてたもんじゃない」と、しみじみつぶやくKだった。おまえは突然、なんの話を始めるんだ。Nとの話で気持ちが冷え込んでいたのに、いきなり真夏のヌーディストビーチに放りだされた感じで情緒が変になる。温度差で体がおかしくなる。ちょうどいい温度の友人がほしい。

 

 

 

▼映画の感想『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を書きました。タランティーノ監督作品です。1960年代のハリウッドの雰囲気。セリフ回しがタランティーノぽくない感じがした。ずいぶん長いですし、映画好き向きの作品かも。