玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

このブログの内容はすべてフィクションです

意味を理解しなければならないか

▼ミニトマトは今日も元気。大きいプランターに撒いたミニトマト、バジルの芽も出てきている。植物を育てることはいい。自分の人生にもかすかな意味があると錯覚させてくれるから。何かありましたか。

 

 

 

▼ハシビロコウのクラッタリング。

マシンガンのような音がするので驚く。クラッタリングには挨拶、求愛、威嚇、なわばりの宣言、満腹で満足のようにいくつかの意味があるとされる。

 

以前、殺人オニゴッコの『Dead by Daylight』というゲームを熱心にやっていた。閉鎖された空間に散らばる発電機を修理することでゴールゲートが開く。殺人鬼に怯え、協力して発電機を修理するのだ。

 

 

逃亡者たちはスカイプなどの音声ツールの使用はできないし、チャットなどもできない(鬼の場所を逃亡者同士で知らせたりすると、鬼が著しく不利になるので)。コミュニケーションはエモートなどもなく、ボディランゲージのみになる。それも立つとしゃがむの二つしかない。他の逃亡者を見かけたとき、一瞬しゃがんで立つ。腰をヘコヘコさせているように見える。これが挨拶になる。ケガを治してもらったり、救出してもらったときのお礼もヘコヘコ。発電機を誤って爆発させ、殺人鬼に気づかれたときは土下座がわりのヘコヘコ、仲間が発電機を爆発させたときは「何やってんだよバカ―」の怒りのヘコヘコである。そのときの状況と腰ヘコヘコですべての意味が伝達できる。

 

ハシビロコウのクラッタリングは状況によって違いがあるのだろうか。検索してみてもわからなかった。こういう動作が極度に発達した結果、言葉が生まれるのだろうか。

 

 

 

▼映画の感想『ジョナサン 二つの顔の男』を書きました。二重人格もののサスペンスです。ちょっと地味かつ曖昧な終わり方ですので好き嫌いわかれそう。私は好きでした。

 

いくつか感想を読んだところ、曖昧なエンディングの評判が良くないようだった。少し前、『エヴァンゲリオン』の庵野監督のドキュメンタリーを見た。そこで印象的だったのは「謎に包まれたものを喜ぶ人が少なくなってきている」という言葉だった。きちんと説明されたり、わかりやすくないとウケない時代になったのかな。そういう傾向は顕著になっているのかもしれない。

 

映画の感想を書くとごくたまに「この作品の意味はなんですか」とか「映画のあの部分が理解できない」とかメールをもらうことがある。まずそこで少しギャップを感じる。作品に意味を見つけたり、理解したいのだなと思ってしまう。普通はそうなのかもしれないけど。

 

意味がわかったり納得すればストンと腑に落ちて先に進めるのだろう。でも、なんだかよくわからないという気持ち悪さを引きずっていくのも大事に思う。ときどき思い返してみても楽しい。どうしても作品に意味を見つけたくなったり、理解したくなったりするがそれは本当に必要なのだろうか。理解とは何かがよくわからないのだ。美味しい料理が出てきたとき、味を言葉巧みに説明したり、レシピや材料を把握していることが理解なのか。ただ、美味しいと思って料理を楽しむだけでは駄目なのかなと思う。意味を求めることが正しいのかがわからない。

 

私は本当のところ、それほど映画に興味がないのかもしれない。映画は石のようなものだと思う。これは定まっている。何年に撮られ、誰が主演して監督し、ストーリーはこうなってという。その石を自分の心に投げ込んだとき、池に波紋が生じる。その波紋の形は人によって違う。水の質も、池の大きさも深さも人によって違う。受け止め方は千差万別なのだ。私は石そのものではなく、石によって自分の心に生じる波紋、感情に興味がある。理解とか意味というのは、石そのものについての分析になる。だから今一つ興味がわかないのかもしれない。

 

もっとも、作品を理解したいという欲求はあった。わからなくて感想を書き始めた。書くことによって理解するということがあった。だけど理解するために始めた結果、今では理解しなくていい、ただ面白ければいいと思うようになった。人生もそういうことなのかな。うっかりするとすぐに生きる意味などを探してしまう。意味や理解などどうでもよくて、楽しんだり、面白がることが大事なのだと思う。でもそれは生きる意味を真剣に求めた人がたどりつく結論のようにも思える。答えは常に足元にあったが、足元にあったと気づくにはいったんそこを離れなければならない。回り道は無駄にみえて不可欠だ。