玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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おばちゃんはなぜカバーを掛けるのか

▼料理のレパートリーを増やそうと新メニューに挑戦。ジャガイモ、ウインナー、チーズが入った餃子を作る。見た目は悪くないが、なんの変哲もない味。ジャガイモ、ウインナー、チーズだからまずくはないが、ただ3つの食材が入っているだけで、それぞれの食材が掛け算になったうまさではない。足し算になっているかも怪しい。買ってきたものなら素直に「うまくない」と思うが、自作だと心が抵抗する。失敗を認められない。かけた手間、費用、時間が多いほど認められないのだろうなあ。

 

「これはあのー、まあ、なんというか、手放しですばらしい味とは言えないものの、食べられないわけではないし、最初の3個ぐらいはうまいような気がする。いや‥‥意外といける! あったかければ案外うまいんじゃない?」などと自分をごまかそうとする。企業犯罪を隠そうとする悪徳弁護士ばりに抵抗してしまう。最終的には「餓死寸前でこれがでてきたら? 嬉しい! 最高だな!」という極論までもっていく。翌日、冷静になった心の陪審員が「やはり、あれはないな」と判断する。

 

なかなかレパートリーが増えません。

 

 

 

▼調べもの中に開いた動画が面白く、ずっとその人の動画を観てしまった。不動産投資の落とし穴みたいな動画で、私にまったく関係ない話だけど。人は10万円もらえるはずが5万円しかもらえなかった話より、10万円払わなければならないが5万円で済んだという話のほうに強く惹かれるのだろうか。損だけはしたくないという。その人の動画は私の知らないことだらけで、この人の話を聞かないと損をするのでは? と思いズルズル観続けてしまった。そう思わせるのが人を引き込む秘訣なのかな。

 

YouTubeで観たが、自分でクリックしたせいか「探しあてた」感じがある。これは単なる錯覚で、私がクリックしそうな動画を過去のデータから分析してYouTubeが薦めただけなのだろうけど。この「たまたま探しあてた」とか「偶然たどり着いた」感じが重要な気もする。世界の裏側を教えてくれるとか、マスコミが伝えない真実にたどり着いた感じがある。そうすると、それがとても価値のある真実に見える。こうやって陰謀論などにはまっていくのだろうか。などと、不動産投資の動画を観ていただけの話なんですけど。

 

 

 

▼打ち合わせ。久しぶりに見知った顔の人たちと会うと嬉しいもの。隣席のTさんはテレワーク中に編み物を始めたという。「どうですか、これ。かわいくないですか?」と見せてくれたのは、パソコンのモニターに掛けるレースの布だった。自作だという。はたしてこれは、かわいいのか。今はパソコンのカバーも製作中というが、パソコンは熱が篭もるからやめたほうがいい気もするのだけど。

 

昭和の頃、なんにでもカバーを掛ける文化があった。黒電話、テレビ、洋式便器の蓋などに掛かっていたのを憶えている。高価な物だからカバーをするというわけでもなく、ティッシュペーパーの箱、トイレットペーパーホルダーにも掛かっていた。いろんな物におばちゃんたちは手編みのレースでカバーを掛けた。おばちゃんはなぜかカバーを掛けたがる。Tさんは30代前半だと思うが、いよいよそんな時期に差し掛かったのか。

 

あの文化が謎だった。おばちゃんになるとレースカバーを掛けたくなるものなのか、それとも編み物でいろんな物を作り終えてしまい、有り余った力の行く先がカバーなのだろうか。どっちなのだろう。Tさんに「おばちゃんになったからですか?」などと訊けば命が危ない。まだもう少し生きたいんだ。あの謎の文化は昭和に生まれ、平成を生きのびて、令和にも達していた。

 

画家の安野光雅のエッセイを読んだとき、戦前のことが書いてあり、家の電球にレースのカバーが掛かっていたという文章がある。第二次大戦前から、おばちゃんたちはレースでカバーを掛けていた。おばちゃんがカバーを掛けたがるのはドラキュラが生き血を求める如く、本能的なものだろうか。歳をとってカバーを掛けたくなった方がおりましたら、お気持ちを教えてください。

 

 

 

▼映画の感想『仲間たち』を書きました。1964年、ちょうど前回の東京オリンピックと同じ年に公開された映画です。人は助け合って生きていくという、ややもすると恥ずかしいテーマですが、それを正面から描いています。こういう作品もたまにはいいですね。松原智恵子さんがきれいです。