玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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日記

▼いよいよ寒くなる。寒さを和らげるために、オカマ口調で駅までの道を急ぐ。「んもぅ~! ちょっとなんなのぉ、この寒さぁ~! ほんとバカーっ!」などと口にすれば体が温まるような。これ、ライフハックっていうんでしょ。私は知っているんだ。

 

お世話になっている会社に到着。先日、隣席のTさんが実家に帰ったところ、この時期には咲かない花が咲いていたという。スマホで撮った花の写真を見せてもらう。「帰り花」と言っていた。初めて聞いた言葉。帰り花と狂い咲きは同じ意味だそう。狂い咲きというと、おかしくなって滅茶苦茶に咲いたようなイメージがある。花はいくつかの条件はあるだろうが、一定の温度になると咲くようにプログラムされているのではないか。だとすると「狂う」というのは人の思い込みでしかない。花にしてみれば狂い咲きも自然な事かもしれない。帰り花という言葉は趣があってよいな。帰り花をつかっていきたい。

 

 

▼『鬼滅の刃』を借りて読みました。記憶がもたないので、もう前に読んだところを忘れている。柱の人たちの名前は全員忘れている。21巻から最終巻の23巻まで借りた。斬られると思い出が流れ、回想場面に入る漫画なのだった。敵味方両方にそれなりの背景があり、人物が書き割りにならぬよう気をつけて描いていることがわかる。とにかく人がたくさん死ぬわけで、作者はつらいんじゃないのかな。架空とはいえ一つの世界をつくりあげ、思い入れのあるキャラがそれぞれ必死に生きており、そのキャラを殺してしまう。最後の方は毎週死んでる感じ。あまり親しくない親戚が死ぬのより苦しいのでは。もっとマシな例えがないのかという話ですけど。実につらいと思います。

 

物語を一度しか味わえなくなった。今、十代の子は『鬼滅の刃』を何度も読み返すのだろう。十代の頃は好きな本を何度も読み返していた。これは本だけでなく音楽もそうかも。体に作品がしみ込んで骨肉になるような経験は十代でないとできないのかもしれない。時間もあるし、体力もある。多くの作品に一度だけしか触れないというのは、通り過ぎているだけなのだろうか。作品の楽しみ方は選べるようなことではなく、人生にはそういう時期があるのかもしれないと思いました。

 

 

▼10歳の頃から日記をつけはじめ、91歳になった現在も日記をつけ続けている人のニュースを見た。81年も書き続けているとは恐ろし。出版してくれないかなあ。私の友人もネットではなくノートに書き続けており、30年ぐらいは書いているという。案外、書いている人いるのかな。たまに振り返って読んだりすれば面白いのだろうか。私はここ何年まったく読み返さなくなってしまった。そもそもなんで書いているのか不思議。誰かに頼まれているわけでもないし、期待されているわけでもなし、まったく儲かりなどしない。ごくたまに怒られることがある。こうなると書いている意味がまったくわからない。変態なのではないか。

 

 

▼映画の感想『雄呂血』『ジュラシック・ワールド/炎の王国』を書きました。『雄呂血』は1925年に公開された時代劇、田村正和のお父さん坂東妻三郎が出ています。迷惑な人。『ジュラシック・ワールド』は、まあわかるでしょ。火山がドーン! 恐竜がギャオ―! ムシャムシャです。おまえ、二度と感想書くなよという。