玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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フランス料理

▼新型コロナの感染者数が増えてきた。製薬企業ファイザーに続いてモデルナでも、新型コロナに対して有効な臨床結果が出たと発表された。ニュースを見たらNETFLIX(動画配信)とZOOM(ビデオチャット)の株価が急落し、旅行、飛行機、ホテルなどの株が急騰していた。おお‥‥わかりやすい。資本主義。

 

 

 

▼キャンペーンの仕事は無事終了。終わってみれば早いもの。なんでもそういうものだけど。千年、生きたとしても振り返ってみれば、あっという間なのだろう。

 

一緒にやっていた人たちから「なんだかさびしくなりますね」と言われた。「さびしさと嬉しさ、両方ある」と言う人もいた。そういう心境になるのはいいことに思える。それだけ一生懸命、取り組んでいたのかも。まったく何も感じないというのは慣れきっているのだろうか。場所を変える必要があるのかな。

 

さびしくないかと訊かれたけど、まったくさびしくない。「また勝利してしまった。しかし、この勝利は周到な準備からきたもので、すでに勝利は約束されていた。いわば自明の理。わっはっは」みたいな心境と言ったら「クラスで浮いてる中学生によくいますよね」と言われた。中学生ならば、まだまだ成長できよう。わしは、まだやれる。もっと浮ける。

 

 

 

▼中学時代の友人に半年ぶりに会った。PCパーツをやりとりした。ネットで済むことが多いが、実際に会わねばならないというのも、それはそれで楽しい。

 

「俺の行きつけの店に行こう」というので付いて行く。高級なフレンチレストランで、外側からカトラリーを使うような店だった。こんな店が行きつけなのかと驚く。入るのに緊張するような店だが、なぜか私も何度か来たことがあるような気がした。よくよく思い出してみると、保険組合の健康診断で検査終了後に券をもらって食べに来たことがあった。落ち着かない様子で周囲を見回しながら食事したことを思い出した。友人に「健康診断で券もらっただろ」と訊いたら「一人で来るのが怖かったんだよおおお」と認めた。お互い、サイゼリヤで十分な人間だった。300円のミラノ風ドリアで満足。

 

子供の頃は、中年になれば自然にフレンチレストランに行くようになり、ソムリエに「今は何がいいの?」と訊いたり「シェフを呼んでくれたまえ」と言うようになるかと思っていた。ならなかった。妄想だった。行きつけの店は業務スーパーだし、ワインではなく雪印コーヒーでも十分なんだ。

 

 

初めてフレンチレストランに行ったのは小学3、4年の頃だったと記憶している。一着だけ持っているよそ行きのジャケットとお揃いの半ズボンを穿いて、都心へ出かけたのだ。親戚の結婚式に着るぐらいだったけど、バーバリーの偽物みたいな柄で気に入っていた。父は自分で事業をやることをあきらめ、新しい会社に就職したばかりで、まだまだ貧しかった。私はナプキンをするような店に行ったことなどなく、テーブルクロスの白さがまぶしかった。父としては、一度きちんとした店に連れてくれば、後に自分で店に行くときも気後れしないですむと考えたのかもしれない。

 

父がもらってきた券は2枚だった。両親は大人2名のメニューを注文し、私の分は取り分けて食べさせればよいと考えたのだろう。だが、近所のファミレスとは違い、そんなことができる雰囲気の店ではなかった。目の前に美味しそうな料理が運ばれてくる。私はその料理を美味しそうに食べる両親を見続けるだけだった。新手の拷問。

 

たまにウェイターがパンと水のおかわりを訊きに来る。私は必ずパンをもらい、そのパンだけでしのいでいた。ウェイターの目には、どういう風に映っていたのだろうか。目の前でご馳走を食べる両親と、パンだけしか与えられない子供。悪さをしてご飯抜きになったのか、虐待されているのか。厨房で話題になっていたのでは。虐待で児童相談所に通報されなくて良かったな。実際のところ、両親も居たたまれなかっただろう。父は意地悪でもないし、むしろ気前はいい人間だった。後に母が「あの頃は本当にお金がなかった」というから、タダ券だけ持って店にやってきたのだろう。普段たいした物を食べてないし、たまには家族にいい物を食べさせてやろうという父なりの気遣いだったのかもしれない。見たのは地獄だけど。

 

少しショックを受けたのか、店を出た後の記憶が一切ないんですね。両親から謝られたとか、その後に何を食べたとか、何も憶えていない。真っ白。あのレストランのテーブルクロスのような。ただパンをくり返しおかわりしたことだけを憶えている。大人になってからフランス料理を食べる機会はあったけれど、思い出すのは「パン、美味しかったな」ということ。フランス料理はパンに限る。