玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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堪え忍ぶ日々

▼今日は気温が34度なので過ごしやすかった。そう書いてハッとしたが、感覚がバカになっているのでは。「今のダンナ、顔は殴らないし、ギャンブルはしても子供の給食費までは持ってかないからすごく優しー!」ってのと同じような。気がふれている。というか、そんなヤツいるか。先週、40度というひどい暑さだったため34度でも涼しいように感じた。だが、よく考えたら34度でもひどい暑さ。先週のダンナがひどすぎて基準がおかしくなっている。今週のダンナよ、涼しくあれ。ダンナじゃないけど。

 

クーラーがなければ熱中症の危険もあるし、いつの間にか日本は人が住めない地域になりつつあるのかしら。

 

 

 

▼ガガガガガガガ、ガリガリガリ、ドンドンドン、ギュイイイイイイインというわけで、給排水管交換工事3日目が終了。あと7日の辛抱。語彙が貧しいが、だいたいこんなだよ。特筆することが何もない日々が過ぎていく。そもそも工事前から特筆すべきことがない人生だったわけで通常営業。

 

他人が大勢、家に出入りする。自分が何をするでもないが、それだけで少し気疲れするのだなあ。あと、テレビが観られないことに不自由さを感じる。テレビの前に取り外された洗面台と洗濯機が置かれたので、テレビ画面の上部10センチぐらいしか観られない。ニュースはまだ音声があるからなんとかわかるものの『世界ネコ歩き』などはお手上げ。猫あっての番組なのに猫が観られない。ナレーションの「おや? やっぱりおばあさんの膝が一番落ち着くのかなあ」という声を聞いて画面を観ても、おばあさんの頭が見えるかどうかという。想像力ですべてを補うしかない。すべては修行の日々。ネコ歩き以外の番組を観れば? と思いますけどー。

 

 

 

▼18世紀までのヨーロッパ古典時代は職人と芸術家の区別がなかったという話を聞く。現代の芸術家は自分のためという動機で作品制作を行っている印象がある。ところがそういった考え方はここ200年ぐらいのものだという。古典時代以前の芸術家は注文を受ければなんでも作り、画家や彫刻家や建築家などジャンルが分かれているわけでもなかったという。レオナルド・ダ・ヴィンチは万能の天才だったと言われるが、べつにダ・ヴィンチだけでなく当時の芸術家は誰もがそうで、注文があれば絵だろうが武器だろうがなんでも作っていたそうだ。たしかに職人ぽい。

 

芸術家が自分のために作品を作らないのは意外に思えた。芸術は芸術のためにだけ存在するというのは、自然な考えだと思っていたがそれは本当に現代的なものでしかないという。では古代の人がどういった動機で芸術制作を行っていたかというとミメーシス(模倣)によって世界の本質を再現するのが芸術の目的という。大層は話になってきたので、続きはまたいずれ。

 

 

 

▼工事のストレスというか、これはなんだろうと考えていたら生活習慣の変化かもしれない。朝は工事の人間がやってくる前に早起きして準備しておかねばならない。皿も自分の好きな時間に洗うわけにはいかず、食べたらすぐに洗う。昼、ちょっと疲れたらゴロンと横になっていたがそれもできない。夜は風呂場で洗濯をしておかねばならない。部屋は全体的にきれいにしておかねばならない。べつにそれぐらい当たり前だろうと言われればそのとおりである。きちんとした暮らしを強制されているのだ。ぐおおおおおお。ダラダラしたいんじゃあ~という体の叫びを感じる。ただのダメ人間ですけど。

 

人と会わないというコロナの自粛はまったくこたえないものの、工事による自粛は3日目でもうこたえている。生活が自分のペースで行えない。ハッ! 姑との同居はこんな感じか。たいへん!