玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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現在落語論(立川吉笑)

▼痛風の関節炎が癒えていない、まだ膝が痛い。ヨヨヨ。痛風になると眠くなるのだけど今日は特別眠かった。体が休養を訴えている。無視して映画を観る。

 

眠いままに昼に放送していた『日本沈没』(1973年)を観る。うつらうつらして、あまり憶えていない。とにかくみんなよく煙草やパイプを喫っている。会社で吸うのは当り前、人の目の前で吸うのも当たり前。時代ですね。電話は黒電話で、下に板のようなものが敷いてある。黒電話と接続されており、テープレコーダーで録音できる仕組みらしい。留守番電話も昔はあんな形だったのだ。50年近く前ともなると、もはや別世界。とにかくみんな元気で、よく殴り合いになる。学者ですら殴り合いだから、血の気の多い時代。そして日本は沈没した。

 

 

 

▼立川吉笑さんの『現在落語論』を読む。自分の仕事を細かく細かく解体していく。落語家はなぜ和服を着て座っているのか、新作落語を作る意味、落語ではなくてコントや漫才では駄目なのか、など誰しも頭に浮かびつつも、なあなあにしていた疑問に一つ一つ答えを出していく。突き詰めなければ気が済まない人なのだろう。徹底して自分が立っているところを検証する作業は、自分はどうやって生きていくかということにも繋がっているように感じた。やや人を選びますが興味深い本。理屈っぽい方、文句言いながら生まれてきた方など好きそう。

 

 

落語の表現の可能性に言及した部分が面白かった。落語は古い表現方法であるものの、かなり自由なんですよね。落語家が「美人がいる」と言えば、観客は頭の中にそれぞれの美人を思い浮べる。ところが映画やドラマで美人の設定の女優がいたとして、それは監督にとっての美人かもしれないが、観客にとっては違うかもしれない。美人だけども嫌いなタイプとか、もっと他のがいいとか、イメージと違うとか、具体的な誰かを特定してしまうことでかえって難しくなる。こういった表現は、受け手に想像させる落語や小説のほうが向いている。余計なものを削ぎ落すことで無限の可能性を獲得することもあるんですね。ラーメンズのコントは、服装は白か黒の一色に決まっている。余計なものを削ぎ落とすことで、性別、年齢、時代などを越えてどんな人でも演じることができる。お金もかからない。わかっているようで、あらためて考えたことはなかった。

 

立川吉笑さんは落語でなければならないというより「面白ければなんでもOK」の人に感じる。今は落語だが、落語にこだわらず何かまったく別の形で笑わせてくれる日がくるかもしれない。きっとどんなやり方だって良いのだ。

 

 

 

▼大江健三郎さんの子供時代の話を読む。『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んだときのこと。作品が自分に向けて書かれているように感じ「作者は自分のことを知っているのではないか」と、先生に言ってみたところ「作者がおまえのことを知っているわけがない」と、にべもなく否定されたという。それ以来、人前でそういった感想を言わなくなったのだとか。かわいそ。

 

ある作品が自分に向けられて書かれたなど読者の誤解にすぎないけれど、そこまで作品に深く共感できるのは幸せな体験で、それこそ読書の醍醐味といえる。そんな誤解ができたらすばらしいこと。先生がそういった体験を一切せずに先生という職業に就いたのなら、残念なことかもしれない。先生は言葉一つで他人の人生を左右してしまうこともあるわけで、慎重になりたいもの。先生に限った話ではないが。

 

やはり、こういった真面目なことしか書けないのは、すごく調子が悪いのではないか。絶不調。なにかふざけたくだらない話でも書いてみたい。IQ3まで低下したら絶好調になる。