玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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利休と朝顔

▼仕事でお付き合いのある方の息子さんは、家でオンライン授業を受けているという。画面は何分割かされて、先生と生徒たちの顔が映っている。息子さんは、好きな子の顔を最大化して授業を聴いているのだとか。なるほど。堂々と好きな子の顔を正面から見られる。コロナ時代のあるあるなんだろうな。画面をキャプチャしたり、ムービーとして保存する子もいそう。私が学生なら、間違いなくやってそう。専用フォルダに保存してアルバム作ってニヤニヤしてそう。キモー、と思いました。学生時代に戻りたい。

 

 

 

▼痛風の関節炎が出る。左膝が腫れあがり、伸ばすことができない。日記を読み返すと、前回、症状が出たのは2020年3月。なんとまだ4カ月しか経ってない。日記が役に立つ唯一の瞬間と言えよう。杖をついて移動する正真正銘のおじいちゃんとなった。

 

ロキソニンを飲まずに堪えてみる。姿勢によって痛みがまったく違い、何度も寝返りを打って痛くない姿勢を探す。うつらうつらしているだけで熟睡できなかった。今は薬に頼ればいいものの、昔の人は大変だったろうなあ。いつ良くなるかも知れない不安のなかで、痛みに堪えるしかないという。朝、堪えきれずに薬を飲んだ。午前中は眠くて使い物にならず。午後もブログを書いている。一日使い物にならないのでは。

 

 

 

▼仕事でお付き合いのあった方から転職したというメールをもらう。「このたび○○社を卒業し‥」とある。学生が使うのは当然だけど、どうも社会人が卒業という言葉を使うのは違和感がある。個人のステップアップのために会社を踏み台にした感があるのかな。そんな悪く受け取ることもないんだけど。

 

では、会社に残っている人たちはなんなのだろう。留年だろうか。今後は、長くいる社員は「会社に留年し続けている人たち」と呼びたい。「卒業」という言葉を使うことで、ずいぶんときれいに聞こえるような気もする。離婚しても「夫婦という関係を卒業し」と言えるし、友達と絶交しても「友人関係を卒業し」と言える。亡くなっても「人生を‥」、もうやめとこ。そういうのいくない。

 

思えば、卒業しても入学はしないのだな。番組やグループを「卒業」することはあるが「入学」することはない。私が積極的に使っていきたい。新しい会社に入社したとき、「このたび入学しました〇〇です」と挨拶していきたい。アホが入ってきたと思われる。

 

 

 

▼都知事選の投票に行ったとき、校庭の隅に朝顔のプランターを見かけた。朝顔を見ると思い出すのが千利休と朝顔の話。

 

利休の屋敷に立派な朝顔がたくさん咲いているという評判が立つ。噂を聞きつけた秀吉は、利休の屋敷を訪れる約束をする。約束の当日、秀吉が屋敷を訪れると庭の朝顔はすべて切られていた。茶室に入った秀吉の目に入ったのは、たった一輪の見事な朝顔で、それを見た秀吉は深く感動したという。この話が伝えたいところがよくわからないのだ。いったい利休というのはどんな人だったんだろうと思う。

 

秀吉というのは派手好きで、かつて利休に命じて金の茶室を作らせている。わかりやすい人なんですよね。秀吉の性格を考えるならば、できるだけたくさんの朝顔があれば満足しそうだし、当然、利休もそれをわかっていたように思うのだ。でもあえて、朝顔を切ってしまい、茶室に一輪だけ活けてみせた。これこそが侘び寂びであり、粋であると宣言しているようで、ちょっと嫌味ったらしいというか。あまりいい印象がない。一輪の朝顔を引き立てるために、他の朝顔を切ってしまうというやり方は花を愛でる人間がやることではないように思う。

 

秀吉が一輪の朝顔を見て感動したというのは『茶話指月集』にあるそうだが、本当に感動したのかなと思う。利休が示した侘び寂びを理解できないのは悔しいと思い、あえてわかったふりをするというのもありそうに思う。のちに秀吉と利休の関係はこじれ、秀吉は利休に自害を命じる。もう、この時期から秀吉と利休の間はこじれていたのかもしれない。一輪の朝顔は妥協なき芸術の表現なのかもしれないが、利休は秀吉へのあてつけとして「これが侘び寂びなんですよ」と見せつけたようにも思えるのだ。それは幼稚なことだし、一期一会という茶の湯の精神からほど遠い。そんなことはすべてわかりきったうえでも、やらずにはいられなかったような。そんなふうにも思えるのだ。利休は何を思い、朝顔を切ったのだろう。

 

 

 

▼映画の感想『ハドソン川の奇跡』を書きました。機体トラブルにより、ハドソン川へ緊急着陸したUSエアウェイズ1549便。降りてからがいろいろ大変でした、という話。有名になるのも大変。