玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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いつか演歌に行く日

▼九州は大雨で被害が出ている。政府は国内観光の需要喚起を目的としたGoToキャンペーンを予定している。このキャンペーン予算を使用して、被災した人たちの宿として旅館を借り上げれば、旅館も助かるように思うけど難しいのかな。

 

 

 

▼わからない本を何冊か読む。わからないものは、わからないのだった。前向きにとらえるならば「今後、わかる可能性があるものがまだこんなに残されている」という希望がある。後ろ向きにとらえるならば「時間の無駄だった」という。さみし、さみし。

 

子供に大人向けの本を読ませても理解が難しいのと同様、理解できる領域は少しずつ広げていくしかないのだろう。いきなり難しいことはわからない。そうやって積み上げていったものが、ある日、気づけば膨大な高さになっているのかもしれない。今、私はその知の断崖絶壁を下から見上げて愕然としているのだけど。泣いている。ヨヨヨ。

 

 

 

▼BSでたまに演歌をやっている。いつか私も演歌に行くのだろうかと思って聴くことがある。演歌に行くタイミングがわからないのだ。子供の頃、抱いていた演歌のイメージは、おじさんやおばさんが聴くものだった。あとトラック野郎。トラック野郎は八代亜紀が好き。そういう偏見で生きてきた。

 

今や私もゴリゴリのおじさんになった。かつてイメージしていたおじさんではなく、中学生の思考を持った「よりたちの悪い何か」になってしまった気がする。あんまり考えすぎると不幸になるのでやめとこ。で、おじさんになった今も演歌は聴いてないし、聴き始める気配がない。スイッチが入ったように突然「そうだ、演歌を聴こう」となる日がくるのかな。きっかけがわからずにいる。もしや、聴かないのではないか。ここら辺は前にも書いたのだけど。スイッチのありかがわからないな。

 

演歌の歌詞を見ていると、現代人の感覚と乖離している。詩を読むと多いのが、会いたいけれど会えない男女である。せめて死ぬ前に一目会いたいだの、恋しいあの人に会えなくて今夜もそっと枕を濡らすなどが多い。SNS全盛、秒で世界の裏側の人間とも繋がり、会いたくなくてもビデオ会議で強制的にご対面である。DA PUMPの『USA』を聴いて育った世代に演歌は理解可能なのか。

 

自分の中に、自然にすっと入ってくるものというより、世界観や現代との違いを楽しむ感覚なのだろうか。時代小説で戦国武将の活躍に胸躍らせたり、落語を聴いて江戸時代の生活に思いを馳せるような。演歌もそういった楽しみ方なのかなあ。いつか演歌に行く日は来るのか。

 

 

 

▼かぐや様は告らせたい

高校の生徒会が舞台のラブコメ。ほぼ生徒会内だけの会話劇で話がすすんでいるのがすごい。面白いです。主題歌が鈴木雅之ってのが渋い。