玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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面白い顔で乗り切れますように

▼英語でメールを書くときによくわからないことがある。英語がからきしなので、日本語で書いたものを翻訳サイトに入れて英訳し、それをペッと貼り付けるだけなのです。「よろしくお願いします」という言葉がわからない。翻訳サイトでは「Nice to meet you」になる。それはいい。メールの最初の方に来るのはいい。仕事では締めの言葉として「今後ともよろしくお願いいたします」と書くことが多い。あれも翻訳では「Nice to meet you」だ。最後にまたきちゃっても大丈夫か。AIが信じられない。

 

「初めまして」みたいな意味だと思ってたんだけども。何度もやり取りしている相手に使ってもいいものなのか。それに文末に来ても大丈夫なのか。文末に書いて「終わりにきて、また挨拶しだしたぞ、この日本人」と思われやしないか。そんな簡単なことすらわからないのだ。怪しいのでそこは書き直している。

 

何が恐ろしいって義務教育で英語を何年も学んだはずがこの体たらくであり、英文メールを書くのは、海外ゲームの運営に質問するときだけという。死こそがふさわしい。

 

 

 

▼6月の初めに図書館が再開。最近は映画はあまり観ておらず、図書館で借りてきた落語ばかり聴いている。古今亭志ん朝の『柳田格之進』を聴いた。

 

 

今との価値観との差にうなるところがある。柳田はある藩の武士だったが生真面目で堅苦しい性格だったため疎んじられ、職を失うことになる。家でやることもないので碁会所に通い、浅草の両替商である万屋源兵衛と知り合いになる。意気投合した二人は碁友達になり、それからは源兵衛の家で碁を打つことが多くなった。ある日、いつものように二人が碁を打っていたところ、番頭の徳兵衛がやってきて主人の源兵衛に五十両を手渡した。二人は碁に夢中で、五十両のことは憶えていない。のちほど、番頭が源兵衛に確認したものの、五十両など知らないという。五十両はどこを探してもない。番頭は柳田が盗んだと決めつけ、源兵衛が止めるのも聞かず、柳田宅に押しかける。当然、身に覚えのない柳田は否定する。だが、番頭が奉行所に訴えると言うと、柳田は「今、五十両は手元にないが、明日までにはなんとかする」と言う。

 

貧乏浪人である柳田に蓄えなどあろうはずがない。柳田は疑われ、取り調べを受けることを恥じて自害しようとしていた。それを察した娘は、自ら吉原へ行き五十両を工面すると言い出す。さらに「きっと五十両はすぐに見つかるでしょうから、そうしたらそのお金で自分を身請けし、源兵衛と番頭を斬って武士の体面を守ってください」と父に告げる。柳田は断腸の思いで娘を送り出し、翌日やってきた番頭に五十両を渡す。その際「もし五十両が見つかったらどうする?」と番頭に訊くと、番頭は「そのときは自分と主人(源兵衛)の首を差し上げる」と答える。

 

のちに五十両は源兵衛の家の座敷から見つかる。源兵衛は自分で座敷に隠したことを、碁に夢中になるあまり忘れていたのだ。そこからもいろいろあり、源兵衛と番頭の謝罪を受けた柳田は快く二人を許し、娘を吉原から連れ戻してめでたしめでたしとなる。

 

長々と書いてしまった。何が言いたかったといえば、疑われただけで自害しようという柳田の価値観である。この噺では柳田については頑固で実直な侍として描かれ、茶化されている様子はない。美談の主として描かれる。無実であるのに奉行所で取り調べを受けるぐらいなら死んだ方がマシというのがなかなかすごい。結果として娘が吉原に身売りをし、五十両を工面することになる。娘が身売りするぐらいなら、取り調べ受ければいいのになというのがある。もちろんそれは現代の価値観でしかないし、武士の価値観を否定する気もない。

 

江戸時代にタイムトラベルするような作品、逆に侍が現代にやってくるような作品もある。柳田のような侍が現代にやってきたら、いろいろなことが受け入れられず、それこそ死ぬしかないのではないか。とても価値観を変えることなどできないように思えるのだ。近頃、価値観の変化がとみに目まぐるしくなってきた。技術の進歩が早くなっており、技術が進歩すれば新しくいろんな物が生まれる。価値観もそこから生じた物に引きずられて、変化の速度が上がっているのではないか。働き方、性、人権などでの衝突をSNS上で頻繁に見かける。

 

三つ子の魂百までという言葉があるが、価値観は若いうちに形成されて更新が難しいように感じる。パワハラセクハラしごき体罰が当たり前だった世代の人間は、価値観の更新に苦しんでうまく現代に対応できてないのかなと思うこともある。若い人は現代の価値観で自分の価値観が形成される。だから古い世代との軋轢は常に生じてきたし、それはこれからも変わらないだろう。だけど価値観の変化の速度が早すぎて、ついて行けない人が増えているように思う。

 

「昔のテレビはなんでもありだった」「昭和は良かった」「昔はおおらかだった」と言う人をみるたびにそれは感じる。本当のところ昔が良かったかどうかは疑問がある。昔、苦しんでいた人たちが声をあげられるようになって良くなった部分が多いように感じている。昔を懐かしむ人も、今は自分が価値観の主流からはずれ、懐かしんだ時代に戻れないことを知るからこその「昔は良かった」なのかなと思う。今の人にしてみれば、その昔を知らないのだから「そんなこと言われても」だろうけど。

 

私など元から古臭い人間である。古い人間が古い本ばかり読んで、今度は落語などを聴きだしたら、この先どうなるかわからない。価値観について行けないどころか「あいつは何を言ってるんだ」と言葉が通じなくなるかもしれない。言葉は駄目だ。変化する。顔芸だな。顔芸ですべてを伝えきる。来日したての外国人のように「ヨロシクオネガイシマス」と、顔芸だけで令和を生き抜いていく。外国人に見えるように整形を考えている。