玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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修行

プレミアムフライデーだった。この日だけは、上司に真空飛びヒザ蹴りをかましてもいい日。気になる異性の家まで跡をつけ「いつも見てます」というメモを郵便受けに残しても、あんまり怒られない日。

 

政府が忘れても、私は忘れない。プレミアムフライデーよ、永遠に。

 

 

 

▼NHK『ブラタモリ』を観た。今日は比叡山延暦寺。信長が焼き討ちして虐殺したことは有名だが、なぜかそれには触れられなかった。信長への忖度か。違うと思います。

 

お坊さんの修行が興味深かった。閉ざされた狭いお堂の中を「南無阿弥陀仏」を唱え、3カ月ぐらいひたすらぐるぐると歩き続ける。トイレと食事をとる時間以外、ずっと歩いているというのだ。天井からぶら下がっている紐につかまって眠ることはできるが、床で横になって眠ることはできない。歩きながら眠ってしまうこともあり、壁にぶつかることもあるそうです。実に不思議な修行。

 

何を考えて歩くのか、何が得られるのか、目的などは一切語られなかった。目的や成果を求めること自体が間違っているのかもしれない。この修行を実際にやったお坊さんがおっしゃっていたが、念仏を唱えて歩き続けていると「人によっては仏様が見える」とか。それ、疲労による幻覚なのでは。しかし、人は3カ月も不眠不休で歩き続けられるのだろうか。監視カメラを付ければ、絶対に寝ているところが撮れると思うのだけど‥‥。喝ーーーーーっ! 実に低俗な思考。くだらない雑念を捨てなさい。私はそんなこと思い浮かびもしなかった。

 

でも、どうしても意味や目的というものに囚われてしまう。こんなことをしても意味がないのでは、などと考えてしまう。そういった雑念を消し去るのが目的なのかな。目的を持たないことを目的とすれば、その目的は達成不可能なのでは。何を書いているのか、おまえはという話ですけども。そこで登場するのが「無」なのだろうか。目的も思考もない「無」の境地。

 

しかし、はたして仮に無という状態になれたとして、それがどういう意味を持つのだろうとも思う。またここでも意味を求めてしまう。意味や目的がわからないからこそ、こういった修行は続いてきたように思う。はっきり効果が測定できないところに、何かがあるようなないようなという。簡単に説明などできないものだから昔から続いてきたのではないか。それでいいのだ。3か月ひたすら歩いてみて「何もなかった」となれば、それはそれで清々しい気もする。ただのアホかもしれんけど。

 

その他に12年間、一切下界と関わらない修行も紹介されていた。12年は長い。そこそこ悪いことをやって服役していたのと同じぐらいの年数。親の死に目にも会えない。テレビもPCもスマホも新聞もない。情報のまったくない暮らし。あおり運転も、タピオカミルクティーも、知らずに生きていくのである。知らなくて問題なかった。

 

 

 

ガラケーが11月で機能制限がかかる。なんと通話とSMS(ショートメール)しかできない。Eメールすらなくなるという。なんだそれは。ガラケーは、ただのパカパカする奴になってしまう。今もそんな感じですけど。知り合いがいないので。メールだけは使ってたんだけどなあ。残念。月額1400円もしないで使えていたのに。

 

この一方的なサービス低下がほとんど話題にもならず、抗議の声も炎上もないというのは、炎上させる人はみなスマホを使っているからか。ふうむ、ついにスマホに乗り換えるときなのか。それとも、いっそ携帯を持たないという手もある。無の境地という。無かー。この時代に無はつらいなー。今、無というのはかなりの修行。「連絡をとりたい」と言われても「念で送ってくれ」と言うしかない。

 

PCにメールもらえばいいだけか。じゃあ、無で。無の方向で。無の方向? 無なのに方向はあるのかな。