玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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虐殺後に見るもの

北海道胆振東部地震の影響で、先週はスーパーの牛乳が品切れを起こしていた。もうあまり報道はされないものの現地は大変なのだろう。先日は牛乳も入荷していた。少しずつ良くなる。

 

 

 

▼殺人オニゴッコ「Dead by Daylight」で遊んでいる。

 

 

生存者を斧で殴って、担いで、フックに吊るして、助けに来た生存者をまたボコる。フヒヒヒヒ。生存者の阿鼻叫喚の悲鳴が響きわたるゲームなのです。ホホホホホ。楽しい。

 

キラー(殺人鬼)側は生存者を捕まえてフックに吊るして体力を奪えば勝ち。サバイバー(生存者側)は最高4人まで同時プレイ可能で、マップ内にある発電機を修理して稼働させ、出口のゲートを開けてゴールすれば勝ち。癒されますなあ。

 

問題なのは、楽しくてずっとやってしまうということ。時間がいくらあっても足りぬので続けるか迷う。この悪夢のようなゲームをやって寝たら、子猫の夢を見た。子猫に餌をやった。「かわいいね。お腹すいたの? ご飯食べる? わー、えらいねー。上手に食べられたねー」ってなった。虐殺ゲームのあとになぜ? 情緒不安定なのかな。怖い。

 

ゲーム後にかわいい子猫の夢が見られるなら、この虐殺ゲームをやり続けるべきでは?

 

 

 

▼日本語辞書編纂者飯間浩明さんのインタビュー(朝日新聞DIGITAL)を読む。読み応えのあるインタビュー。言葉の使用の正誤について、ネットでは厳しい指摘を見かけることがある。飯間さんは言葉の誤用について否定的ではない。多数が使い続ければ誤用ではなくなることもあるし、そもそも正誤の判定をどういった基準でなすべきかも難しい。清少納言や安原貞室も言葉の誤用を糾弾するのではなく、あくまで個人的感想として指摘するに留めている。

 

飯間さんは、正誤を判定する「規範意識」が芽生えたのは1975年前後(丸谷才一「日本語のために」、鈴木孝夫「閉ざされた言語・日本語の世界」の刊行による日本語ブーム)からではないかと指摘している。

 

「日常の言葉はそもそも全て俗語であり、他人の言葉に目くじらを立てる風潮がなかったからです。その一方で、書き言葉の基本となる漢字は、正字か、誤字か、といったことが厳格に考えられました。鳥と烏、千と干を間違えたら伝わらないからです」

 

たしかに書き言葉の誤用は意味を取り違えるので問題がある。でも話し言葉ならば特に問題はないのかもしれない。先日、「バチェラー・ジャパン」を観たときに、さまざまな感情を「ヤバい」で表現する出演者がいた。美味しくても、状況がまずくても、嬉しくても、悲しくて涙がこぼれそうでも、すべて「ヤバい」となる。だけど、「ヤバい」を使用した彼女の表情や状況と併せれば、十分に意味は伝わってくる。言葉の目的は感情や状況を正確に伝えるためで、正しく使うことが目的ではないのだから、多義的使用について厳しく糾弾する必要はないのではないか。

 

「ヤバい」の多義的表現については、ここ十年ぐらいかもしれないが、「どうも」は物心ついてからずっと多義的だった。「ヤバい」を多義的に使用する人を「日本語の乱れ」と攻撃する人はいても、「どうも」の多義的使用について攻撃する人は見かけない。「どうも」の多義的使用については完全に認められていて、今更とやかく言うまでもないということもある。

 

だが、それだけではない気がする。言葉には、その言葉を好んで使用する層がある。「ヤバい」は普通の人も使うが、ややヤンキー的な色がある。意識高い系といわれる人や官僚は好んで英語を使う。職業や業界内部だけで通用する言葉もある。ときにこういった言葉が日本語の乱れとして攻撃を受けるが、本質は日本語の乱れではなく、自分と異なる層(特に上の層へ向けて)を排斥したいという欲求なのではないか。大雑把にいえばオタクとヤンキー、低収入と高収入、未婚と既婚、一般人と芸能人の対立というような。日本語を正したいという気持ちもあるかもしれないが、根底には異なる層への嫌悪感と、嫉妬に根差した憎悪が潜んでいるように思える。