玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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チャーハン

▼今日の最高気温、東京は37度の予報。それはそれとしてチャーハンを作る。

 

チャーハンというと、米がパラパラにならない悩みがあった。毎回、ベチャベチャなチャーハンを作り「これはこれで良いものだ」などと、うそぶいていたが、もちろん強がりである。今回ですね、ようやっとパラパラチャーハン(レシピ)ができた。温めた米を、卵液に浸して卵ご飯のようにしてしまう。それを焼くだけだが、あまりフライパンを動かさずに焦げ目をつけるようにする。これだけなんですよね。米の周りにコーティングされた卵で卵焼きを作るようなイメージというか。あと、創味シャンタンとか適当に入れたら美味かろうよ。

 

ベチャベチャチャーハンの時代は終わりを告げた。私の人生にとってエポックメイキングな出来事だったのは間違いない。今後、私の人生を振り返ったとき「ベチャベチャチャーハン期」「パラパラチャーハン期」と区分される。

 

チャーハンの作り方2つで語れる単純な人生。

 

 

 

▼Mitskiの曲を聴いている。音楽の感想ってどう書いたらいいんだろう。

 

映画の感想を書いているのは、作品の意味がしばしばわからないからだった。書くことによって自分なりにわかろうとする。第三者に伝えようとして初めて形になるというか、その形を自分で見て「こういうことだったのか」と腑に落ちる。頭が良ければ書く必要はないかもしれない。自分の心は池のようなもので、そこに石(作品)が投げ込まれる。水面の変化は人によって違うもので、人によっては派手な水しぶきを立てて波紋が広がるだろうし、人によっては何の変化も見られない。それが感想というものだから、違って当たり前なのだ。

 

そして、この投げ込まれたものがなんであるか、石なのか、石だとしたらどんな形をしているのか、石ではなくて古道具屋の前にあるタヌキの置き物かもしれない。その何かが投げ込まれたことによって、池の底には何かが静かに堆積していく。表面からは見えなくても確実に積もるのだ。作品を観る前と観た後では、かすかではあるが違う自分になっていて、だからこそ観る意味がある。これは何も映画に限った話ではないのだけど。

 

音楽は難しい。目に見えるものがない。もちろん歌い手や演奏者の見た目はあるのだけど。形をつかむのがより難しい。どこか懐かしいとか郷愁というありきたりの言葉にするのは簡単だけど、なぜMitskiの曲に引き付けられるのか、具体的にはわからぬままに聴いている。

 

 

 

▼中学の友人との飲み会欠席。今回は集まりが悪かったらしい。

 

友人Wによると、Wを含めても三人しか来ず、そのうち一人のMについてはまったく憶えてない。初対面のようなものだったという。あまりにも気まずいので、人数を増やすためにWの親しい同級生Oを誘いに行ったという。Wが友人Oの家に行くと、Oは「アニメ観ているから行きたくない」という。そういうところがあるんだ、あいつは。

 

WがOに「Mって憶えてる? どういう奴だっけ?」と訊ねると「知ってる知ってる。あいつ、たしかハンドボール部だったわ」と答えたという。Wは車で待っていたMたちの元に戻った。特に話題もないので、先ほどのOの話を思い出し「Mってハンドボール部だったんだって?」と話を振る。「いや、違うけど‥‥」と否定された。

 

そこで思い出したが、友人Oはまったく意味のない嘘をつく癖があった。「ハンドボール部だった」という、なんの意味もない嘘は彼が中学時代によくついていたものだった。「親が殺人犯」とか「姉がアイドルにスカウトされた」とか、なんらかの意味を持つ嘘じゃないのだ。プラスにもマイナスにもならないフラットな嘘をつく。意味がない。

 

Oは「この前、紀ノ國屋(スーパー)で新しく出たメロンパン食べたら美味かった」などと言う。メロンパンなど新しく出てないのだ。とにかく意味のない嘘を平然とつく。恐ろしいやつ。今回もそのパターンだったらしい。車内はなんとも言えない微妙な空気になったという。結局、飲みに行かずに解散したとか。

 

なんとも言えない話を書いてしまった。友人Oは何かの病気なのか。

 

 

 

▼映画の感想「伊集院のばらえてぃー ノンアルコールドミノ毒入りの巻」を書きました。出ている芸人もよくわからない低予算バラエティ番組ですが面白かったです。仕組みがいい。プレッシャーの中、人の性格が浮き彫りになっていく様子も面白い。