玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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▼早起きして大谷選手の登板を観る。投げている球のレベルが違う。何かすばらしい決め球があるというより、全部の球種が決め球になっていて空振りをとれる。前回はスライダーを決め球にしていたが、今日はスプリット、カーブ、スライダー、すべてで空振りがとれていた。怪我だけが怖い。イチロー選手を超える選手は生きている間に見られないと思っていた。それが間違いだったのは本当に嬉しいこと。タイプは違うものの、超える可能性を感じさせてくれる。久しぶりにワクワクする選手。

 

 

 

▼母の日。運動のときに着る服をプレゼントする。今まで母は「服がないから行かない」「雨が降るから行かない」「暑すぎる」「寒すぎる」「どうも気が乗らない」「忘れていた」「日取りが悪い」「ベランダから黒猫が見えたので縁起が悪い」など、さまざまな言い訳を駆使して運動をさぼってきた。ごくごくたまに行っているようだけども。服を買ったことで、言い訳の出口の一つをふさいだかもしれない。まだ、あと出口は999ある。

 

運動に行ったら死ぬ、ぐらいの感じで行かない。その鋼鉄の意思、見習いたい。

 

 

 

▼集合住宅の理事会の防災訓練。非常食を作って食べる。

 

アルファ米を使う。アルファ米は、一度炊き上げた米を乾燥させたもので、熱湯を加えて混ぜることによって再び柔らかいご飯になる。アルファ米の混ぜご飯を50人分作った。しかし、災害が起きても実際はこの非常食はすぐに役に立たないことが多いという。というのも、アルファ米のご飯を作るためには50食の場合、8リットルの熱湯がいる。それだけ大量の水と、水を沸かす電気かガスが用意できないことが多いのだ。

 

被災者にすぐに渡すには、そのまま食べられる乾パン、おにぎり、パンなどのほうがいいという。ちょっと余裕が出てきたときに、アルファ米のような温かい物があるといい。なぜこういった支援物資があるかというと避難所生活のストレスに堪えるためだという。人も動物なので、住居を移動したときのストレスは激しく、避難所で健康状態が悪化して亡くなる方も出てしまう。そういったストレスを和らげるために、温かい食事は有効らしい。避難所では何かと揉めることも多く、温かい物を提供することで避難所の運営もしやすくなるようなのだ。

 

そんな話を聞きつつ、アルファ米の混ぜご飯を食べる。少しだけ臭いが気になるものの美味しいんですよね。ここまで支援物資って美味しくなっていたのかと驚く。最近、米を食べていなかったからかなあ。他の人は「食べられないことはないけど」と言っていたが、私は本当に美味しかった。毎食でもかまわない。バカ舌なのだろうか。私だけ浮かれていると、普段どんな物を食べてるんだと思われそうなので、私も「食べられないことはないけど」の顔をしておいた。いや、美味しくないですか、これ。美味しいでしょうよ。だいたい何を食べても美味しいんだ、私は。鳥のエサまでならいける。

 

普段、支援物資以下の食事をしているということなのかな。常に災害に備えている男、といえばかっこいい。生まれてこの方、ずっと災害に備え続けている。

 

 

 

▼東大助手物語(中島義道)

哲学者、中島義道先生が東大助手時代に受けたいじめの数々。この作品は純文学を読んでいるような気分になった。

 

中島先生の専門分野であるカントについてはまったくわからないものの、氏の本を手に取ることは多い。「癒される」という言葉は好きではないが、ページをめくると癒される気がするのだ。

 

死に対する恐怖や絶望などをいい歳して持ち続けていて、それが私のコンプレックスの一つになっている。いい歳してこんなことで悩んでいいのだろうかと思うし、恥ずかしいとも思うのだ。本当は個人個人が生と死について悩み続けるべきなのに、生活の忙しさを理由にそれに向き合わずに生きているようで良心の呵責がある。中島先生が代わりに悩んで深い絶望を引き受けてくださっているように思うのだ。まったく勝手な考えだけども。そういうわけで、たまに読むんですよね。

 

この作品は若き日の中島先生の苦しみが描かれている。理不尽ないじめもそうだが、自らのプライドの高さに苦しみ、自縄自縛になっている様子もうかがえる。自分のことを正当化しない描き方がすばらしい。自分がこのような性格になったのは親のせいだと恨み、親を苦しませるために結婚生活がうまくいってないことや、職場でいじめを受けていることを親に報告する場面はたまらなくいい。親を傷つけることで、自らの心を悦ばせる。もう成人してるんだから自分でなんとかしろや、本当にクズだなあと思うものの、先生の暗い復讐の情熱も理解できるのだ。

 

ダメな人を見ることで「私も生きていていいのだ」と勝手に肯定されることもある。もう、その発想がダメすぎると言われれば、そうなのだけど。中島先生の本はとにかく誠実で嘘がないように思える。誠実で嘘がないから、世間的にはどうしようもない人間と評価されるかもしれないが、人はみなどうしようもない人間なのではないか。それを巧みに隠しおおせるか、正直に告白できるかの違いでしかないように思える。