玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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「わかりあえる」の意味

▼風呂というのは偉大だなあ。あれほど殺伐とした気分だったのに、一気に物事がうまく進む気がしてきた。爽やかな気分。幻想かもしれんけど。明日の同時刻にはまた人類を呪っているかもしれんけど。

 

 

 

▼気分転換といえば「どうせ僕なんかが」口癖の卑屈くんの気分転換の方法は、ツイッターで自分よりみじめな人間だけをフォローして観察するということらしい。あんた、とことんクズですな。

 

「だから、しゅんさん(私のこと)もツイッターやりましょうよ。フォローするから」などと言う。おまえ、私をだいぶ下に見ているね。あと「自分よりみじめな人間だけフォロー」って言っといて、よく私のことを誘えるな。サイコパスなのかな。

 

 

 

▼集合住宅の理事会の仕事はかなりきつく負担になっていた。前期理事との考え方の違いで、かなりの量の質問を受けていて追及がすごいんですね。明日もその話だろう。

 

で、「わかりあえる」とは何かということを考えていたのだけど、以前は「わかりあえる」というのは、結局自分の主張を相手に押し付けるだけなのではないかと思っていた。「わかりあえた」と喜んでいるのは、議論に勝った本人だけで、相手からすれば説得されてしまったというだけにすぎないのではないかという。

 

でも、そうじゃない。どっちが勝ったとか負けたとかは矮小な話でしかない。大事なのは、今回のことで言えば、何がこの集合住宅にとって大事か、居住者の利益になるかであって、その結論に向けて統一の見解を見出すということなのではないか。どっちが勝つとか負けるとか、自分では意識しないつもりでいたけど、かなりこだわってたんだなあ。

 

さっきまでは、相手が出してきた穴だらけの資料に赤を入れて、徹底的に戦おうと思っていたのだけど、まあ、そんなことつまらんですよ。論理やデータで相手を説き伏せることに夢中になりすぎて、本当に大事なことを見失っていたような気がする。30分前の私に申し上げたい。よしなさいよ、そんなことはと。今の私は菩薩の心境。万引きも3回ぐらいなら許しちゃう。そんな穏やかな気分。どうなるかわからんけど、なるようにしかならないのだろう。