玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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自己評価

▼鰻というと、平賀源内が考えたといわれる「本日、土用の丑の日」というキャッチコピーがまず頭に浮かぶ。江戸時代からリツイートされ続けていると考えるとすごい。廃れる気配がない。来年も源内はこの時期にブレイクするであろうよ。ブレイクとかいうレベルじゃないが。

 

しかしですよ、源内にしてみると知人の鰻屋が「鰻が売れなくて困っている」というから、チョロッと考えたコピーがこれだけもてはやされたのも違和感があるのではないか。「いつまで鰻、鰻、言ってんだ。俺のメインは、エレキテルのほうだから! いいかげん気づけよ」と思ってるような。本業ではない方で評価されてる。

 

 

エレキテルという静電気発生装置ですが、うーん、実際これは何に使ったんだろ。外国ならともかく、発生させた電気の使い道がない時代である。あれかな、米村でんじろう先生が静電気の玉を触らせてビリっとくる実験をテレビでよくやっていたが、あんなことを源内もやっていたのだろうか。「痛い? 痛い? 今ビリっと来たでござるか?」など。

 

だとすると、鰻のコピーの人でもいい気がする。

 

 

 

▼知り合いと食事。ボーナスについての不満を聞く。彼の同僚がいくらもらっているかはわからないものの、妥当な金額に思えた。むしろ、以前の彼の仕事ぶりを考えると、ちょっともらいすぎなようにも思えるのだ。

 

周囲の評価と自己評価というのはなぜ常にずれるのだろう。そのずれ方は、まず間違いなく自己評価のほうが高いものになる。鏡に映った自分の顔を見たとき、見慣れているせいもあって特に何も思わない。だが、他人が撮った写真に写る自分の顔は、だいたい変質者である。小学校の前で、夏なのにロングコートを着ていたアイツそのものである。このずれはどうして発生するのだろう。

 

鏡に映る自分というのは、無意識に自分がもっともよく見える状態や角度を調整して映るのだろうか。他人が自分を撮る場合、こういったことはまったく考慮されない。自己評価というのは、自分がもっとも良い状態を基準とし、周囲の評価とは周囲から見た平均的な状態を基準とするなら、常に自己評価の方が高くなるのも当たり前に思える。評価というのは、そもそも他人からされるものだから、周囲の評価こそが妥当と言わざるを得ない。