玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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鰻の思い出

土用の丑の日だった。鰻ではなく鯖カレーを食べる。美味し。カレーの偉いところは何を入れてもたいてい美味いところである。以前、スパイスからカレーを作っていた。チリパウダーやターメリックはまだあるがコリアンダーやカルダモンはなくなった。なくなった分は適当に市販のルーを足していいかげんなカレーを作っている。で、いいかげんなのにけっこう美味い。そういうところがいい。カレーの偉大さは、いいかげんさを許容するところにある。わたしが宇宙人になって地球を侵略しても、インド人は生かしておきたい。

 

そうそう、カレーではなく鰻の話。学生時代、夏休みに一か月ほど倉庫でアルバイトをした。けっこうきつい肉体労働のバイトで、いつも仕事が終わる頃にはヘロヘロにへばっていた。わたしの他にも学生のバイトは3人いた。最終日、上司が「おまえたちはよくがんばってくれたから、今日は鰻をご馳走してやる」といった。当時、今ほど鰻は高価ではなかったものの、外で食べれば安くても1500円ぐらいはしたのではないか。

 

仕事を終え、さあ鰻だとなったが上司はわたしたちを外ではなく事務所に連れて行く。いつの間に用意したのか、炊飯器からご飯をよそい出した。事務所に炊飯器があったというのも驚いたが、この日のために持ってきてくれたのかもしれない。わたしたちの前にご飯をよそった茶碗が置かれ、鰻のタレを渡された。それをご飯にかけろという。

 

納得のいかないまま、いわれるままにタレをご飯にかけるとタレの香ばしい匂いがした。上司は満面の笑みで「さあ、食べろ」といった。冗談が好きな上司だったのでふざけているのかと思ったが鰻は出てこない。上司以外の誰もが疲れ切っていて、冗談に付き合うのもうんざりしていた。バイト仲間の中でも一番気の短いSという男が「あの、鰻、本当にないんですか?」と訊いたところ、上司はタレの掛かったご飯を指し「心だ‥‥。心の目で鰻を見るんだ。見えるだろ?」と、さもいいことをいったというように満足気な表情を浮かべた。それが腹立たしい。

 

Sは舌打ちして茶碗を置くと、上司に向かって職場の気に入らない点を並べ立て始めた。次第に声が怒りを帯びてくる。上司は上司で、Sの剣幕にひるみつつも応戦し、Sと上司の怒鳴り合いになって鰻どころの話ではなくなってしまった。茶碗を持ったわたしたちは、ご飯を食べるでもなく茶碗を置くでもなく宙ぶらりんの状態で、Sと上司の戦いを眺めていた。ふいと上司は事務所の奥に引っ込んだ。しばらくすると「チン」という音がして、上司は皿に乗っけた鰻を持って現れた。

 

きっと、鰻がないことでみんながブーブー文句をいった後、「実は買ってました~!」と出してみせたかったのだろう。上司はまったくの無表情で「鰻‥‥、食べな」と、電子レンジで温めてくれた鰻を出してくれた。鰻は上司のポケットマネーで、スーパーかどこかで買っていてくれたのだろう。

 

怒鳴っていたSも、結局、鰻が出てきてしまったので、どうしたらいいかわからず困惑している様子がうかがえた。なにせさっきまで、会社の業務の連携の悪さを指摘しており、それは仕事のことだからいいが、さらに上司に対して「だから、あんた他の社員からも嫌われてるんだよ」などと相当失礼なこともいっていた。それを今更、無邪気に「わーい、鰻だー!」というわけにはいかない。どの面さげてである。

 

我々は味のしない鰻を黙々と食べた。この世に、こんなにも歓迎されない鰻があっただろうか。鰻ってもっと幸せな状態で食べるものでしょう。騒ぎを起こした張本人のSは、なんとかしようと思ったのだろう。ほとんど棒読みで「鰻、やっぱり美味しいなー」と絞り出した。感情を盗まれたような喋り方だった。ソフトバンクのペッパーくんみたいである。もはや何をいっても今更だが、それが精一杯だったのだろう。わたしたちも、Sに続いて「鰻、美味しいなー」と壊れたロボのように繰り返すのだった。もう味がしないわ、ほんと。上司の視線は定まらず、わたしたちの顔を貫通して後ろの壁を見ているようだった。事務所の時計の秒針が聞こえるほどの静けさだった。いったい、わたしたちはどこで間違えたのだろう。鰻はいいから早くこの場を離れたい。

 

鰻には、そういうすてきな思い出がありますね。