玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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▼人は何歳ぐらいから演歌を聴くようになるのだろう。子供の頃は、40歳ぐらいになったら演歌に移るのかと思っていたが、そんなこともない。最近はSuperflyの「Wildflower」をよく聴いている。まだ演歌に移行しそうもない。

 

でも、歌詞だけは読むことがある。演歌の歌詞を読むと不倫の歌が多くて驚く。明日になればあなたは奥さんの元に帰ってしまうけど今夜だけは、みたいなのが多い。堪え忍ぶ女、尽くす女は現代ではファンタジーであって、徳川埋蔵金でも探す方が見込みがありそう。だが、演歌の世界にはこういった人たちがまだ現役である。現実社会とかけ離れているようだけど、はたして次の世代に受け継がれていくのだろうか。歌うときに感情が入らないんじゃないかなあ。

 

女の人も結婚後に働くことが珍しくない。そうなるとかつてのような堪え忍ぶ女、尽くす女というのは成立しにくい。作品には時代との格闘が不可欠だと思うのだけど、演歌はどうやって時代を反映していくのだろう。

 

嫁より稼ぎが少なくていびられる夫、断絶した親子関係・周囲からの孤立による孤独死、お互いにボケてしまう老々介護の夫婦。現代の問題を表せば地獄しかない。時代を反映したら恐ろしいことになった。どうしてくれる。

 

 

 

▼思えば、歌というのは不思議だ。詩だけで成立せずになぜ曲が必要なのだろう。これは歌だけではなくて、物語にも同じようなことを感じる。要点を端的に言葉で表せば短くてすむのに、わざわざ長い物語が語られる。ずいぶんと効率が悪い方法なのだ。でも、歌や物語がない文化というのは存在しないだろうし、またすべて端的にしたならずいぶん味気ないものだろう。

 

やはり言葉だけじゃ足りないのかな。心に浮かんだものを表現するのに、言葉にしたときに抜け落ちてしまうものがある。言葉にすればすべてを表現できたというのは思い込みで、だから誤解が生まれたり、うまく言葉にできないということも起きてしまう。言葉にできない部分こそが重要なのかもしれない。曲や物語は、言葉にできない部分を補っているのだろうか。

 

美しい曲を耳にしたとき、気分が高揚したり、心が慰められることがある。なぜ美しいものが感情を動かすかがよくわからないのだ。理由がわからず感動している。美しいからだといわれれば、そうなのだろうけど。以前よりも、美しい・面白いというものに価値があるように感じている。

 

 

 

▼映画の感想「CAGED -監禁-」「激戦 ハート・オブ・ファイト」を書きました。「CAGED -監禁-」はひとまずおいといて「激戦 ハート・オブ・ファイト」が熱かったですねえ。面白かったー。