玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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わたしが食べたい物をわたしよりも知っている

▼今年はいつまでも寒い。買って4,5年ほど寝かせてあったタジン鍋を発見。すっかり買ったのを忘れていた。なんだこの面白い形の鍋は。本当にわたしが買ったのかな。誰かからもらったのだろうか。鍋に毒とか塗ってないだろうな。クンクン嗅いでみる。そもそも毒の臭いがわからないのだった。じゃあなにやってんのこれ。毒て。40歳超えて毒て。大丈夫か。

 

挽肉と白菜のピリ辛味噌」という鍋を作りました。白菜がなくて代わりにキャベツを使いましたが、キャベツが甘くなり半熟にとろけた卵も美味しい。キャベツと挽肉を交互に重ねて煮るだけという手軽さ。レシピは少し塩辛いので味噌と醤油が半分ぐらいでいいかも。で、ちょっと思いましたがこれはタジン鍋でなくて、蓋をした鍋でもできる気ような。むむ、タジン鍋の存在意義が。

 

 

 

▼アマゾンといえば通販で有名ですが、アマゾンの売上の7割を占めるのは通販ではなくAWS(Amazon Web Service)というデータ分析サービスなんですね。回転寿司のスシローでは、入店した顧客の性別、年齢構成などから、流す寿司を判断することでお客の待ち時間を短縮し、廃棄率の低下にも貢献しているという。

 

会員登録させて入店した際にスマホを認証し割引するサービスなどを導入すれば、より正確な顧客データの把握ができ、このお客はあと3分後にハマチを注文するとか、すべて手に取るようにわかるだろう。ある程度の来店回数があれば、客が何も頼まなくても、ただ流れてくる寿司を食べているだけで満足できる状態を実現できるはず。もうそういうこともやってるのかな。好みが似通った客とデータを照らし合わせて、この客はこのネタを好みそうという傾向もわかり、効果的に新商品を買わせることもできる。わたしの食べたい物をわたしよりも知っているという状態になる。

 

これを目の前で板前がやってくれれば「あの板前は気が利く。客の好みがわかっている」といい気分になるかもしれない。でも、プログラムに判断されると、正直にいえば嫌悪感が先に立つ。掌の上で踊らされているというか。腕のいい板前だって、客を掌の上で踊らせているわけで、でもそれがプログラムだとなぜ腹立たしいのだろう。人間が勘や経験で判断するよりプログラムが判断するほうが正確な分野がある。株売買や気象予報にプログラムが使用されるのは当たり前になっている。プログラムが好みを判断したとしても、厨房で寿司を握っているのは人間なわけだから、それでいいとも思うのだけど、なにかこう腑に落ちないところがあるのだ。

 

それはおまえが古い人間だからだといえば、それもそうなんですけども。この嫌悪感の正体は何だろう。何も考えなくていいというのは楽だけど、何も考えなくていいことへの恐れなのかな。どんどんバカになっていくという。SF映画のように、コンピューターに管理される社会への恐れなのかな。それはあまりに極端すぎる話だけど。

 

それとも、もてなしの問題なのだろうか。誰かが作ってくれた物を食べる、そこには人対人の関係があったが、対応するのがプログラムだと一段階下の対応をされた気になるのかな。人間にかまってもらってないという。でも厨房で握っているのは人なんですよねえ。だが、その人たちも客の好みを考えて握っているのではなく、入った注文とプログラムが予測したメニューを握っているだけなのだ。利益を上げてるために導入したプログラムに使役されている構造が気に入らないのかな。使っているようで使われているという。客もうまいことそれに乗っからされている。自分が理解できない仕組みによってコントールされている。わからない、得体の知れないというブラックボックスが嫌悪感の元なのだろうか。

 

とすると、プログラムを書いたエンジニアはこういった仕組みを導入した店舗で食べても、プログラムを知っているわけだから嫌悪感は感じないことになる。どうなのだろう。

 

 

 

▼映画の感想「ラストミッション」「郵便配達は二度ベルを鳴らす」を書きました。久々のケビン・コスナー映画でした。