玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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マニュアル

▼あるソフトのマニュアルを作らなければならない。お手本として、いろんな製品のマニュアルを適当にダウンロードして読む。細かな部品一つ一つの名称まで書いてあるのが偉い。ま、わたしが作るのはほら、社内向けだから、そんなねえ、ちゃんとしたのじゃなくても大丈夫じゃない? などと言い訳をして始める。

 

そもそもマニュアルというものが人間にとって必要なのか、こういったものが社会を悪くしてきたのではないか、などと三十分に一度の頻度で「これ本当に作らないと駄目?」という状態に陥ったものの、なんとかマニュアルらしきものができた。

 

わたしがよく使うレシピの載ったサイト(クックパッド)など、ああいったレシピも広義のマニュアルにあたるのかもしれない。個人の独創性を削いでしまうこともあるかもしれないが、レシピサイトがあるおかげで料理技術の平均値は相当に上昇したように思う。子供の頃、わたしの母などは料理の味つけが塩のみ、醤油のみ、など本当に単純だった。誰かに弱味を握られて複雑な味にしないよう脅迫されているのではないか、そう疑うほどの単純さだった。

 

たまに「牛乳の味噌汁」など危険なメニューに挑戦して失敗することもあった。「まずい」と不満をいうわたしに「まずくない!」と一喝し、強引にすべてを食べさせた。よってこれは失敗ではない。失敗した料理など、この国には存在しない。上がまずくないといえば、その判断は絶対的に正しいわけであって、おまえの舌の方を合わせよと教育されてきた。将軍様万歳。やっぱりねえ、独裁国家というのはどうかと思いますよ。関係ないけど。

 

今はみな多かれ少なかれレシピを見て作るだろうから、そんな単純な味になることはないのだろう。だが、平均値が上がる窮屈さというのもあるのだろうか。できて当然のレベルが高くなると、今度は「なんでできないの? 書いてあるのに読んでないの?」と責められそうである。母のように「まずくない!」と開き直ってごり押しできる強靭な精神力があれば別だが「こんな当然のこともできてない」と落ち込んでしまう人もいやしないか。

 

仕事でわからないことがあったとき、とりあえず検索して答えを探し、それでもわからなければ訊くというのが当たり前になっている。それぐらいやって当然という。適当さ、いいかげんさは許されない。それは他人の時間を奪わないということではもちろん正しいのだけど、そういう平均値の上昇も窮屈さを生む一因になっているように思えるのだ。

 

 

 

▼マニュアルを作ったとき、仕事場の近所にある知り合いの家に泊めてもらった。シャワーを借りて説明を受ける。

 

「温泉の素の容器にシャンプー、シャンプーの容器にカビキラー、もう一つ別のシャンプーの容器にリンス、コンディショナーの容器に温泉の素」という謎のルールを聞く。複雑すぎるぞ。

 

あれかな、泥棒が侵入して勝手に風呂を使ったときのために罠を張っているのか。殺しにきている。シャンプーの容器にカビキラーはまずかろうよ。怖いので使わずに出る。やはりマニュアルは必要だ。