玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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古着

▼ただ捨てるのももったいないので、叔母の洋服を古着屋に持っていく。古着屋というのはちょっと入りにくい。オダギリジョーのような、やる気があるんだかないんだかわからないオシャレ店員がいそうで、ちょっと店に入りづらいのだ。イタリア、フランス、スペインなどの古着を中心に扱っている店らしく、大きく「イタリア古着」と書かれていて敷居が高い。

 

そんなオシャレなところで、叔母の服を引き取ってもらうのは無謀じゃないかと気おくれした。だが、店員は気さくな方だったし、一応服にも値段もついた。ありがたい。で、今引き取ってもらったものが堂々と値段を付けられて店頭に並ぶ。そうか、叔母の服はすべてイタリア製だったのか。

 

関西のおばちゃんが着るようなヒョウ柄のやつとか、ラコステのワニが逆向いている偽ブランドのポロシャツとか、全部イタリア製である。だって「イタリア古着」って書いてあるんだから間違いない。

 

意外と敷居低かった。というか、敷居なかった。

 

 

 

▼今日も平穏無事に終わった。平穏無事に終わるということは書くことがないのである。

 

毎日書いていてわかったが、人生には滅多に特筆すべきことなど起きないのだ。これはわたしだけではなくて、多くの人が何も起きてないのだと思う。思いたい。だってさびしいじゃん、なんか。ねえ。え、なんか起きてるの毎日。だとしたら悔しい。嫉妬する。

 

さておき、歳をとったらより書けなくなるのかなと思う。若い頃ならば珍しいことも「これはたいしたことないな」と自分の中のフィルタが厳しくなり書かなくなってしまう。これに抗うには積極的にいろんなことに気づいていくしかない。フィルタは年齢や経験で自然に厳しくなるが、気づいていくのは自分から注意しないと気づかないのではないか。

 

安部譲二さんの本だったと思うけど、兄貴分の阿部錦吾という人から注意された話が載っていた。ヤクザというのはテレビのコマーシャルだってボーっと観ていちゃいけない。どうやったら強請れるか考えながら観なさいとか、そんな内容だったと思う。ヤクザがいけないのは当たり前だが、たいしたものである。わたしもボーっとしないで気づかなくては。誰かを強請らなくては。

 

ただ、気づかなくては気づかなくてはと意識し続けるのもずいぶん鬱陶しい話。そういうことを表に出さず、ごく自然に気づいたようなのがかっこいい。じゃあ、この文章全部なしということになりますね。それは嫌。ここまで書いた15分が無駄になるのは嫌。明日からはごく自然に気づいた感じでいく。