玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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雪の日の美しい人

▼雪が降る。都心では11月としては54年ぶりに初雪を観測(NHK NEWS WEB)。雪を手の中で強く握って、透明の氷の玉を作る。雪が降ったら必ずやってしまう遊び。今年もやった。つめたひ。

 

雪というと友人Mの話を思い出す。小学校3,4年ぐらいの頃、友人Mは頻繁にデパートに通っていたという。デパートで買い物をするわけではない。デパートの外壁や床に化石が入っていることがあり、それを見つけるのが楽しみだったという。雪が降りしきる2月、学校から帰ったMはまたデパートに出掛けて化石を探していた。デパートの外壁に埋まっているアンモナイトの化石に見入っていたところ、不意に傘を差しかけられた。

 

「何見てるの?」

デパートの制服を着たきれいな人だったという。雪の中、小学生が熱心にデパートの壁を見ているので少し心配になったのかもしれない。Mは突然のことに驚いて、口ごもりながら壁に埋まっているアンモナイトのことを説明した。Mの指先にあるアンモナイトを見つめる女性の横顔に感動したという。なんて美しいんだと、息を吞んだ。思い返すとMの初恋はそのときだったらしい。思い出で美化されているにせよ、彼はいまだにあれほど美しいものを見たことはないという。それからはそのデパートに行くこともなく、化石への興味もいつの間にか失せてしまったという。

 

ちょっと聞くと何やらいい話のようだが、それから10年余りたち、彼がアルバイトした金でデパートガールもののアダルトビデオを狂ったように買いまくるのだが、その話は聞きたくなかった。Mは、なぜいい話を台無しにしてしまうのか。思い出は美しいままに。

 

 

 

 

▼老年の価値(ヘルマン・ヘッセ)

小説家ヘルマン・ヘッセのエッセイ、詩、写真など。ヘルマン・ヘッセは老いを自然に受け入れている。逆らうわけでも、あきらめるわけでも、楽観的でもない。わたしたちの隣にあるものとして感じているようなのだ。こういう心境にいつかたどり着けるのだろうか。自然の美しさを紙に写し取ったような言葉の数々、老いて希望を失わない姿勢に何か救われるものを感じる。老いた人が楽しいのであれば、自分にも希望が持てるような。そういった先人を見つけて安心してしまうのはちょっとずるいような気もするのだけど。老い先の楽しみは自分で見つけなければならないというのはわかっているが、それでもずるをしたくなるもの。ヘルマン・ヘッセはそれにちょっとだけ手を貸してくれる。

 

「老年は青年に劣るものではありません。老子は釈迦に劣るものではありません。青は赤より悪くありません。老年が青春を演じようとするときにのみ、老年は卑しいものとなるのです」

 

「この世を去ってしまった人たちは、私たちが生きているあいだ、私たちに生前影響を与えた本質的なものをもって、私たちとともに生き続けています。それどころか多くの場合、私たちは生きている人びとよりも、死者との方がずっとよく話をしたり、相談したり、助言を得たりすることができます」

 

この二つ目の文、これは死者だけでなく、遠く離れた友人や恩師などについてもいえるかもしれない。何か問題が持ち上がったとき、その人だったらどう考えるだろうと思うことがある。その人がいいそうな答えがパッと頭に浮かぶことがある。答えだけが浮かんで、なぜその答えに至ったかの道筋はわからない。だが、その答えは確かに正しいように思えるのだ。答えまでの道筋を考えて、わかるときもあればわからないこともある。

 

そんな答えはおまえの頭の中の話で、それは想像にすぎないだろうといわれればそうなのだ。でも、確信をもった正しさで心に訴えかけてくるのだ。