玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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バターの香りは

▼吉岡純子さん(現代俳句協会会員)という方のエッセイを読む。アメリカのニュージャージーに一軒家を借りて住んでいたことがあり、家の持ち主がその家を売却することになる。以降、買い手が頻繁に内見に訪れることになる。不動産屋から内見の連絡があるのは前日にあればよいほうで、ひどいときは到着10分前ということもあるらしい。病気だからと断っても「あなたは寝ていていいから気にしないで」と押しかけてしまうことも。さらに、誰も家にいないときでも、不動産屋が勝手にお客を連れてきて家の中を見せてしまう。これは州法で決められており違法ではないという。プライバシーを重んじるアメリカ人にしてはずいぶん意外に感じた。

 

だが、家はなかなか売れない。内見が頻繁に来るので著者がまいっていたところ、隣人から「お菓子を焼くとすぐ家が売れる」と聞く。試しにやってみたところ本当に売れたという。でも、エッセイではなぜ売れたかという理由は書かれてないんですね。どういう理由なのだろう。

 

家というのは結局、料理に対しての皿のようなものでしょうか。家は人が住むために存在する。家単体では用をなさない。家を買うからといって買い手が見ているのは家だけではない。無意識に現在住んでいる住人も観察している。そこで暮らしている人たちがどんな人たちなのか、幸せそうなのかを観ている。お菓子を焼くということは幸せの象徴のように映るのかもしれない。夫が銃を乱射し愛人を家に連れ込み、子供は覚醒剤中毒で家庭内暴力が絶えない。この状況でお菓子を焼くかといえば焼かないだろう。焼いたらどうかしている。ポリスを呼べ。

 

家族がうまくいっていて、さらに買い手にもお菓子を出してくれたりして「幸せそうな家族だな。いい人そうだな」という像に自分たちを投影してしまう。そこに住んだら自分たちにも明るい未来が待っていると思わせるのではないか。お菓子の甘い香りを幸せの香りと錯覚して、買い手は家を買ってしまうのかもしれない。錯覚て。意地悪な。

 

だけどやっぱり美味しいものが作られているというのは、とてもいい環境に思える。人は美味しいものを前にすると機嫌悪くできない。つい、ニヤニヤしてしまう。ニヤニヤ笑いながら「コノヤロー、ぶっとばすぞ」とはいえない。いえたらサイコパスっぽい。そういえば竹中直人さんが笑いながら怒る男というネタをやってましたね。なんの話だっけ。