玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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一人称

▼日記を書くときには「わたし」という一人称を使っている。でも、わたしが「わたし」という一人称を会話の中で使うのは仕事のときだけだ。それも、あらたまった場のときだけで、普段は「僕」を使う。友人と話しているときは「俺」になる。でも、どれもしっくりこない。どこか自分とは遠い感じがする。

「わたし」というのは堅すぎるし、「僕」は幼くかわいい感じがする。「俺」はちょっと乱暴すぎるような。こう、ちょうどいい感じのものがないかね。友人Oは「オイラ」を使っている。「オイラ」なんて言うのはビートたけしか、不倫がばれる前の矢口真里ぐらいか。さすがの矢口真里も、叩かれてからも「オイラ」を使い続ける根性はなかったとみえる。矢口の話はどうでもいいか。いずれにしろ「オイラ」は癖がありすぎる。

「自分」というのは体育会系っぽいし、「小生」などというのも何か違う。「小生」という一人称を使う人間は、だいたい面倒くさいんだよ。もう、あれは本当にロクなもんじゃない。なにか「小生」を使っていた人間に恨みでも? あります。

さておき、一人称を使うとき、自分と若干ずれたものを感じていた。自分とのずれをなくすのなら、自分の名前を呼ぶという画期的な方法もある。だが、あの方法に堪えられるのは矢沢永吉やももち(嗣永桃子)などの特殊な人間に限られている。常人のハートではとても堪えられない。

自分で自分の名前を呼ぶのはやめにして、自分の本質に近いもので表現するのなら違和感を感じないのだろうか。わたしの本質とはなんだろう。四つん這いの姿勢で、背中に乗った女王様からムチで打たれ「この豚野郎!」と罵られたときに感じたあのときめき。あれこそがわたしの本質なのではないか。豚野郎は、そのように感じました。以後、これでいこう。