玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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理想

▼映画の感想を書いたとき、一度ですんなり書けることはない。たいてい、書き終わった後に読み返して何箇所か修正する。これを疑問に思っていた。なぜ、書きながらその場で気づけないのだろう。

書き手のわたしが書いた後、読み手のわたしが読んでダメ出しをする。脳が一つのことしかやれないからこうなるのかな。読み手のわたしは、どういうわけか文章の良し悪しはわかるものの、どこをどう直せばよくなるかはわかっていない。料理の味はわかるけど、作り方はまったくわからない客のよう。

料理人と客の視点を行ったり来たりしながら書くのだけど、視点を移動させることが難しい。書いた後、次の日に見ると「なんでこんなこと書いたのだろう」ということがある。あれは読み手の視点に移動したからなのだろう。視点移動をすみやかに行えれば、すぐに修正できるはずである。

いかに早く視点移動して客観視するか。寝るのが一番かもしれない。だがそうそう寝てもいられない。わたしがわたしでなくなるにはどうすればよいか。死ぬことを思いついた。外国に行って初めて日本の良さがわかるというが、わたしがわたしに留まっている限り、客観的視点は得られない。それにはわたしがわたしでなくなるしかない。だが、死ぬのはいいが戻ってこられないという問題がある。死んだら死にっぱなし。よってこれは却下。というか、死ぬとかいう選択肢が出るのが怖い。何この人、引くわー。

思えば、プロのスポーツ選手は同じことをやっているのかもしれない。スランプに陥ったとき、自分の好調時のフォームを映像で確認して修正している。自分の理想の状態がわかっていて、修正を試みている。プロというのは、理想像がすでにわかっている人なのではないか。素人は、まず理想像を結ぶということができていない。

よく「感性を上げるためにいい物を見ろ」と言う。この言葉の意味がわかっていなかった。感性を上げてどうなるのかなと思っていた。これは、手本になる物を多く見ることにより、自分が作る側になったとき、理想像を結びやすくするためではないか。理想が見えてなければ、そこへたどり着くことができない。

だから結局、物を書く人ならばいい物をたくさん読むしかないし、絵描きなら絵を、運動選手なら良い選手を、というごく当たり前のことになってくる。当たり前のことがわかるまでにずいぶんと長くかかった。
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