玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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▼友人夫婦の子シラスちゃん(5歳)と話す。

将来の夢は「お嫁さん」などと言っていたので「お嫁さんというのは、ちゃんとした言葉で言うと『人妻』と言うんだ」と嘘を教える。5歳だとすぐ信じる。シラスちゃんは「大きくなったらヒトヅマになる!」と嬉しそうに言っていた。満足。

シラス父から首を絞められる。やめなさい。おまえ、娘を殺人犯の子にしていいのか。



▼お笑いコンビ「ピース」の又吉さんが小説「火花」で芥川賞受賞のニュースを見る。熱が冷めて図書館で借りられる頃になったら読みたい。

ちょっと前に、芥川賞を誰が獲るか予想した批評家の文章を読んだ。又吉さんの作品は、大雑把にいえば表現が稚拙なので今回は選に漏れるという予想だった。表現というのはそれほど重要なのだろうか。

子供の頃にラジオから流れてきたお気に入りの曲は、たとえ音質が悪くてもまったく気にならなかった。ゲームのグラフィックが悪くても、熱中してプレイできた。今はハイビジョンテレビだけど、昔のほうがテレビに釘付けだった。文章も表現の巧拙より、本質が重要なのではないか。

芥川賞の対象は「無名あるいは新人作家」である。新人であるなら、表現の巧拙より訴えたいものが重視されてよいはずである。文章を読んで少し息苦しくなったのは、結局のところお笑い芸人に獲ってほしくないというのが透けて見えてしまったことだ。

批評家であるなら他の候補者と知り合いかもしれない。どれだけ賞に賭けているか、必死で執筆しているか、わかっているのかもしれない。芸術はどれだけ努力したかなど関係なく、作品のみで評価されるべきというのはわかっているだろうけど、それでもやはり許せないのだろう。他分野の人間がかっさらっていくなど面白くない。

だが、文学というのは誰かのものというわけでもない。誰が賞を獲ろうとかまわない。そもそも賞は宣伝で、作品の質にはまったく関係ない。賞にしろ、世界遺産にしろ、ミシュランにしろ、獲らなかったものが獲ったものに劣っているわけではない。たまたまその時点で選考委員がそのように評価しただけである。それを全部了解した上でやはり許せないのだろう。

どこにもそんなことは書かれてないので、わたしの勝手な読み方にすぎないのだけど。だが、敵意というのは、どんなに文章的技巧を尽くしても行間から滲み出てしまう。根底に敵意があるものは、読み手を重苦しい気持ちにさせるものだ。偏見や差別感情を覆い隠したまま、文章を書くのは難しいかもしれない。
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