玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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狂っている

中島義道という人の本を読む。この人は、一種の狂人である。狂人という言葉を使うとき、暗に自分は正常であり、自分の位置からかけ離れたところ、世間からかけ離れたところにいる存在に対して「狂人」と言っているだけに感じる。とても傲慢な言葉かもしれない。

世界に中島先生とわたししかいなかったとすれば、お互いの意見が食い違うとき、世論は50:50となる。どちらからも同じ距離だけかけ離れている。この場合、どちらが狂人ということはできるのか。

この世に狂っている時計ばかりが存在し、正常な時計が一つだけあったとする。すると、世間ではその正常な時計をさして「狂っている」と言うかもしれない。単に多数派と少数派の話とも言える。常識というものの拠り所が単に多数派であるだけだとしたら、甚だ心細いことである。大丈夫、わたしは狂っていない。

なにこの始まり方。久しぶりに日記書いたと思ったら、こわーい。


▼知り合いの子供が左利きという話を聞いた。親は右利きに矯正するという。やはり矯正は必要なのだろうか。よくわからない。

江戸時代、武士は刀を左側にさした。左側通行で武士がすれ違った場合、お互いに刀を左側にさしていれば鞘がぶつかること(鞘当)はない。今は「恋の鞘当」という使い方しかない「鞘当」だが、当時は鞘がぶつかることで喧嘩になったらしい。

こういう無用の争いを避けるため、刀は左側にさされた。だから、武士は右利きに矯正する理由があった。ということを考えますと、今、左利きを矯正する理由はない。むしろ野球選手にするなら断然左である。足が速くて内野安打が多い打者なら、左打席のほうが一塁ベースに1.5歩ほど近いので有利だ。むしろ、子供は全員左に矯正すべきではないか。そうだそうだ。と、主張したら「狂っている」と言われた。実に傲慢な発想。

人の子を全員左利きにしようとするのも、相当アレですが。