玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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飼い猫

▼一緒に仕事を請けているN氏から連絡があった。N氏は、ホームズという名の、とても愚かな猫を飼っている。愚か、かつ、ふてぶてしい。まったくホームズっぽくない。ホームズの具合が悪く、病院に連れて行きたいから、打ち合わせはわたし一人で行ってくれないかということだった。打ち合わせ終了後、N氏から連絡があった。

「打ち合わせどうだった?」
「無事、滞りなく終わったよ」
「本当に?なんの問題もなく?」
「うん。先方のJさんて感じいい人だね」
「うわー、うまくいっちゃったかー。先方が怒りだして無茶苦茶になればよかったのに」
「は?」
「いや、俺なしでうまくいくと、必要ないみたいでさみしい‥‥。『やっぱりNさんがいないと、うまくまとまらないね』という展開が欲しかった。だから、失敗するように念じていたのだ」
「相変わらず、清々しいほどのクズですなー」

ホームズの具合も一段落したそうで良かった。

ペットを飼う責任についてちょっと考えていた。子供の頃に金魚を飼っていた。金魚は、ポンプで酸素を送ってやらないといけない。祭りで買ってきた金魚なども、酸素を送らないと翌日にはバケツや水槽から飛び出して死んでしまう。(水中の溶存酸素を管理して、エアーポンプなしで飼うことも可能ですが素人には難しい。)

祖母のお通夜で田舎に帰らなければならなくなった日のことである。両親は先に出発していた。わたしは遅れて家を出たが、水槽のポンプを入れてきたかどうか憶えていなかった。途中の駅から引き返し、家に戻り、それからまた田舎に向かったのでお通夜に危うく遅れるところだった。母にはずいぶんと怒られた。

金魚など、死んでしまったらまた飼えばいいというのもわかるのだけど、勝手に飼って生き物の自由を束縛しておきながら見殺しにするというのは飼い主の責任に欠けるというか、どうもよろしくない気がする。わたしは祖母が危篤だったとしても、金魚の酸素を入れに戻ったのだと思う。

で、今回、N氏は仕事をほっぽり出してホームズを病院に連れて行ったわけだが、これは仕事に対する責任に欠ける。まあ、欠けてもいいんでないのと思う。二十代の頃なら「仕事をほっぽり出すとは、けしからん」と怒ったかもしれん。正直なところ、今では「どんどんほっぽり出しなさい」という心境である。仕事をほっぽり出しても、何かが死ぬわけでもなし。

仮に今回無理してN氏に打ち合わせに来てもらったとする。その間にホームズが死んでしまったらどうだろう。仕事に対する姿勢は立派だけど、それでも内心どこか軽蔑してしまう気もするのだ。こういうことを考えると、どうも生き物は飼えない。

今朝、ホームズが夢に出てきた。人の家の猫が夢に出てくるなど、まずない。いつもはふてぶてしい態度なのだが、どこかさみしそうで、ふいと踵を返すと静かに去っていった。目が覚めて妙な胸騒ぎがした。虫のしらせというか、最後のお別れにわたしのところに挨拶に来たのだろうか。朝食を摂っている間も落ち着かなかった。

朝食後、N氏に仕事の確認をするフリをして電話をした。仕事の話もそこそこにホームズの具合を尋ねた。
「いや、それがさあ、病院から戻ったら食べるわ食べるわ。そのあとに寝るわ、また起きて食べるわで、ふてぶてしさ倍増」

あのー、そこは死んでてくれないと困るんですが。虫のしらせのはずが。ま、元気なら、それはそれで。どうかお大事に。
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