玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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抜ける

▼友人夫婦の家にお邪魔。友人夫婦の子ター坊(小学5年)と話す。その場にいた全員から「反抗期がなさそう」と指摘され、単純扱いされたター坊は不満そうであった。ややむくれた様子で自分の部屋にこもり、しばらくすると出てきた。反抗の用意が整ったのか、声高に宣言した。

「前から言おうと思ってたんだけど、朝はパンよりご飯がいいと思ってたんだよね!」

それは反抗のつもりなのか。どこまでも抜けていて素晴らしい。そのままで行ってほしい。


▼ター坊、抜けているだけでなく鋭いところもある。ター坊が小学校低学年の頃、「読んでくれると嬉しい」と、童話「北風と太陽」を持ってきた。北風と太陽は、どちらが旅人の服を脱がせるか腕比べをする。北風が強風を吹かせると旅人は服を脱ぐどころか、体を抱きしめてしまう。今度は太陽が気温をあげると、旅人は自然に服を脱いだという話。

これは北風よりも太陽の方が自然なやり方でよいというのが、ふつうの読み方かもしれない。でも、ター坊は「遊びで服を脱がせるのって良くないよね」と言った。一見、太陽のやり方が正しいような気はするが、実は北風も太陽も、たいした意味もなく旅人の服を脱がせようとしている。太陽の方がやり方がソフトなだけだ。

ター坊は人の気づかぬことに気づくことが多いし、話の裏を見抜くことも多い。こういう鋭さを持った人は生きにくい気がする。特に10代~20代までは大変かもしれない。自分が持ってる鋭さで、言わずもがなのことを言ってしまったり、気づいても言わないことでストレスを抱える。鋭さを冗談でくるんだり、柔らかく言えるのは、また別の技術である。それは歳をとらないと難しい。

ただ、鋭さに対して救いになるのが、鈍さや素直さ間抜けさ愛嬌なのではないか。頭の良さは本を読んだり、話を聞いたり、勉強したり、いろんな方法で伸ばすことができる。でも、鋭い刀と対になる鞘の部分、この間抜けな部分を伸ばすにはどうしたらよいかは難しい。頭はいいのに、まったく魅力的ではない人がいるが、これは頭が良くても解決できない問題かもしれない。

ター坊にはどうか間抜けなままでいてほしい。うっかりでいてほしい。間抜けなままでいられたら、それは一つの技術ではないだろうか。
「その抜けたところがいいんだから、そこを伸ばして行ってほしい」と伝えると、褒められたと思ったのか、両手で頭を抱えて「えへへへ。それほどでも~」と照れるのであった。

あ、この人、まったくわかってないなと思いました。ゆけゆけ、ター坊。ヌケヌケ街道をひた走ってほしい。いや、かなり独走してるので、もう速度を落とした方がいいのかしら。
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